☆☆☆ドラドラしゃっちー☆☆☆ 《のほほ〜ん日記》 › 福音 みことば
2025年05月18日
死を解決した唯一の神キリスト
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1299

↓ YouTube より↓
#1299
死を解決した唯一の神キリスト
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
はい。皆さま、改めましてこんにちは。
ところで小野田寛郎さんっていう人ね、戦争終わって30年間、ルバング島というところでね、米軍と戦い続けたっていう日本兵士ですよ。とにかくね、この人ね普通の軍人じゃなくってね、陸軍中野学校という日本のスパイを養成する学校。ちなみに彼、お兄さん二人いてるんですけど、二人とも東京帝国大学医学部です。むちゃくちゃ賢いんですよ。
僕はね、講演一回聴きに行ったことがあるんです。もう一回はね一緒に食事することになってたんですよ。ところがね、どうしても行くことができなかったということでね、ビッグチャンス逃したんですけど。この小野田さんって方ね、30年間にね寝込んだこと一回もないんですって。でね、左の耳聞こえないんです。あるときね「痛っ」ていうて、大きさがね、3センチくらいの蟻が、寝てる間に耳の中入って鼓膜全部食いちぎったって。以来彼はね、ほぼ立って寝るんですよ。立って寝るっていうか、斜めにして寝るっていう。
その小野田さんですね、ついに30年経ってね、本土復帰いうことで日本に戻って来たとき、まぁ日本中がね一世風靡なったんですが。あるとき彼がね、タクシー乗ったって、そしたらタクシーの運転手が話しかけて来てね、「いや最近の日本の親って、何でも子どもの言いなりになって、あまちゃん、あまちゃんになって、これ戦争に負けて自信失ったからこんなことなってしまって、もうほんま昔の親はね、もっと偉かった。最近の親っていうのは腑抜けやぁ」ってね、大批判始めたんです。
そのときに小野田さんが「いやぁ、その我々の親の世代が本当に賢かったら、アメリカのような大きな資源大国と戦争するなんて、あんな馬鹿な選択しますかね」と言ったときに、タクシーのドライバーがね「ちょっとは小野田さん見習え」って。つまりね、彼が考えてる小野田さんっていうのはね、精神論とガッツで全部乗り越えていく人なんです。だけどね、精神論で30年間もやっていけません。合理主義でないとやっていけなかったそうです。イメージと実態が全然違う。
そして多くの場合、神はきよい神、正義の神、だからきっと罪人を憎む神に違いないというふうにイメージを持つんじゃないですか。ところがキリストはおっしゃったんですね。
「罪で心が騒いでどうしようもない人は神を信じ、また私を信じなさい。」
神が遣わしたイエス・キリストは、罪を悲しむ罪人を、愛さずにはおれない方なんです。子どもが病気で苦しんでるときに、子ども憎みますか?子どもを苦しめてる病気を憎むでしょ。人が罪のゆえにもだえてるときに、神は罪を憎むけれども、罪の結果苦しんでる罪人を愛さずにはおれない方です。そして、その罪を永遠の彼方にまでも持っていくために、この方は罪のない生涯を終え、そして十字架の上で私たちの身代わりに、神の罰を受けてくださった方です。っていうんですね。
心を騒がせてはなりません
聖書のテキストです。ヨハネの福音書の14章の1節です。
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
神を信じ、またわたしを信じなさいっていうのはね、これから十字架にかかるけど、弟子たちよ、おまえたちは十字架にかかったキリストを見てね、「ああ、これから先生がいなくなってどうしたらいいのか」と、がっかりするかもわからないけど、あの十字架はあなたがたをがっかりさせるためにかかるんじゃないんだと。あの十字架があるから、心を騒がせなくてもよくなるんだ。人が罪で苦しむなら、その罪は全部あの十字架の上で処分されたんだという、あなたの罪が永久処分された場所として十字架を仰ぎなさいっていう、そのためにこのことばを語ってくださったんですよね。
私たちはどういうときに、心騒ぐでしょう。それはね、死と向き合うときではないかと思うんですよ。
孤独な死ほどつらいものはない
皆さん、永六輔っていう方ご存じですかね。もう亡くなりました。あの人お寺の息子なんですよね。永六輔さんという人は、最後ねパーキンソン病っていう病気になるんです。このパーキンソンって、筋肉どんどん固まって来てね、ふるえて来て、自由に動かないっていう。パーキンソンになって、この車椅子生活でグーって固まって行く中で、彼の担当になった介助する方がね、東南アジアから来た介護士の方だったんです。彼女はね、日本語できるんですよ。そしてね「永さん。筋肉固まって、そらつらいの分かるけどね、そんなうつむいてばかりでよくないと思います。日本にはね、とってもいい歌があるから。『上を向いて歩こう、涙がこぼれないように』ね。上を向いて歩こうって、私も一緒に教えてあげるから一緒に歌いましょうよ。あの歌うたって、もっと前向きに行きましょうよ。いつまでも地面うなだれてるんじゃなくって、上向きましょうよ」言うたときに、永六輔が「あれ、わしが作ったんや」と。
曲は中村八大が作ったんだけど、作詞は永六輔さんが作ったんですよ。「私が作ったんだから」って言ったときに、彼女がね「また永さん、冗談言って」言うてね、信じてくれないのよ。まぁ、あまりにも「上を向いて歩こう」の歌詞を作った人と、下をうつむいて生きている永さんのイメージが、合わなかったので冗談に聞こえてしまったということなんですが。
この永六輔がね、最後になんて言ってるか。「どんどん衰えていってね、最後ね、家で死ぬのがいいか、施設で死ぬのがいいか、病院で死ぬのがいいか、いろんなどこで死ぬのが負担が少ないかって、そんな話あるけどね、場所の問題じゃないでしょ」って言うんです。「どこで死ぬかっていう場所の問題じゃなくて、息を引き取るとき、だれが手を握ってくれるかってことじゃないか」って。息を引き取ろうとするときに、誰とつながってるのか、誰ともつながってない、あらゆる人間関係が切れたままで、誰とも接触がないという、この孤独な死ほどつらいものはない、っていうふうに言ったんですよね。
皆さん、息を引き取ろうとするときに、理想的には一番頼りになる方。それはね、私たちのいのちを造り、私たちに永遠の天国を準備することがおできになる方。この神とともに歩むということの幸いと、その死と向き合うということで、ヨハネの福音書14章の6節です。
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』」
死の解決はキリストだけが成し遂げた
あるときね、一休さんというお坊さんのところに、一人の檀家さんがやって来てね「一休和尚、孫生まれたんです。めでたいんです。うれしいんです。なんかお祝いの一句書いてください」「おぉ、まかせとけ、まかせとけ」って書いてくれた文句がね、「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」ってことばだったんです。「せっかく孫生まれて、みんなでうれしいうれしい、言うてるときに『親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ』ってなんでそんな不吉なこと書くんですか」って言ったら、「いやこんなに素晴らしいことない。一番最初に孫が死んだら、その子の親はむちゃくちゃ悲しむやろ。その子の親が死んだら、最後に年寄り残ってどんだけ悲しい?順々に年老いた者から死んでいく、こんなにめでたいことがあるか」って言ったという。そういう話残ってるんですよね。
だけどこれはね、死の解決とは言わないでしょ。一番あきらめがつきやすいってことだけであってね、死の解決じゃないですよ。死の解決についてはイエス・キリストだけが成し遂げたんです。一度死んだ後で、死後三日目に死を突き破ってよみがえってくださった方。このよみがえったキリストを目撃し、語り合い、まぎれもなく復活したということを確信した人物ヨハネが、このヨハネの福音書を書いてるんです。
ところで皆さん、握手って一人ではできませんよね。神の方は、もう伸ばしきるだけ伸ばしてるんです。あと皆さんが、「私を助けてください」と言えるならば、救われます。ただ信じるだけです。ぜひ、このイエス・キリストを自分の救い主として信じてください。心からお勧めいたします。
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2025年05月11日
罪人を見捨てず愛されるキリスト
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1298

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#1298
罪人を見捨てず愛されるキリスト
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
みなさま、改めまして、こんにちは。
聖書の神はあなたのことを愛しておられます。ちなみに聖書の神というのはね「人が作った神」じゃなくて「人を造った神」です。
このね「人が」と「人を」と入れ替えたら、えらい違いですよ。あのさっきもね、あのマツモトキヨシという薬局に勤めてらっしゃる方が来てくださってたんですけどね。僕の友人もある薬局に勤務していましてね、ある時、高校生が来て「すいません。あのちょっと薬売ってほしんですけど」「何ですか」「母の命ください」って言ったそうです。「母の命ください。あ、命の母Aじゃないですか」母の命くださいってね、お命ちょうだいって、これ、暗殺者じゃない?それだったら「母の命」と「命の母」と全然違うやん。入れ替えるだけで。
もっと違うのが、「人が作った神々」と「人を造った神」の違いです。人が作った神々は人を助けることできません。でも人をお造りになった方は作者ですから、私たちを助けることができます。
もしみなさん、車壊れたら、車のメーカー持って行ったら直してもらえるじゃないですか。パソコン壊れたら、パソコンのメーカーに持って行ったら修理していただけますよね。もし人が壊れたら、人の作者に持って行けばいいんです。この人の作者である方が、人となってこの世界に来てくださった。それがイエス・キリストという方なんですね。そして私たちはこの絶対的に信頼できる方を見失うと、自分で何とかしなきゃなんないということで不安になるんじゃないですか。
人は神に生かされている
でね、あの大阪はね、あの毎年四月の新学年新学期始まる時にね、雑巾持っていかんとだめなんですよ。一人三枚。家でね、作ったやつを学校の掃除に使うということなんですけどね。私子ども三人おるんです。で、この三人が小学生の時にね、明日から新学期いう時に限って「忘れてたあ」言ってね。「何忘れてた」「雑巾持って行くの、忘れてた」言うて。「私も忘れてた」三かける三で九枚や。で家内が「もう、そういうことは早く言ってよ」言って夜中にね、ミシン出してカタカタカタ、雑巾作るんですね。
「お母さん、ごめんね。ほんとにお母さん、助かるわ」言いながら、まあ、彼女の足元でくーくー寝てます。え、何で寝れるかと言ったら、自分が寝てる間に、代わりに働いてくれるお母さんがいるからでしょう。自分では雑巾を作る力ないけど、雑巾を私に代わって準備してくれるお母さんがいるので、うっかり忘れているのに全然心騒がしてないです。全き平安のうちに、くーくー寝てるというね。
みなさん、私たちが寝てる間に私たちに必要なものを与えてくださる方。私たちを生かしてくださってる方。私たちが生きるのに必要な水や空気や太陽やそのすべてを惜しみなく与えてくださってる方。そのあなたの魂の親のことを、バイブルは創造主、あなたの魂の親だっておっしゃるんですね。
この親が私を愛して導いてくださってる。この親子の関係がつながってたらいいけど、断絶状態だったら、まあ、スラム街に子ども一人放り出されるようなもんですよ。どうして心騒ぐんだろう。私のことを代わりに心配して、私を生かし、そして私を助けてくださる神を見失っているからではありませんか?って聖書は言うんですよね。この神から離れることを聖書は、罪というふうに語るのです。
聖書のテキストです。ヨハネの福音書の14章の1節です。こう書いてます。
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
私たちはどういうときに心騒がすか。それはね、自分自身の罪と向き合うときではないかなと思うんですね。
童話作家 宮沢賢治
僕はあの日本の児童作家でね、大好きな人が一人いましてね。宮沢賢治ってご存じですか。岩手県のね、花巻農業学校というところで、学校の先生なさってたんです。その学校の先生してた時に、彼よりも年上だったんですが、彼が本当に尊敬して愛した友人がいるんですよね。斎藤宗次郎という人です。その人ね、クリスチャンです。この斎藤宗次郎という人ね『雨ニモマケズ風ニモマケズ』のあの詩のモデルになった人です。
でも今日は斎藤さんの話じゃなくてね、この宮沢賢治の話で、私一つね、好きな話があるんです。実は彼は童話作家ということでね、子ども向けの本『セロ弾きのゴーシュ』とか、みなさん読みませんでしたかね、もうね、あのおもしろいよ。
あのね、この童話作家ってね、やっぱりね、子どもの気持ちがわかるんですよね。私もね、子どもの時は子どもの気持ちわかりました。でも今はね、おじさんの気持ちはわかるんですよね。それはね、子どもをやめてからずいぶん経ったからですよね。だけど彼は子どもの気持ちが良くわかるということで、村の中の子どもたちがいつでも「けんじせんせい」言うてね、もういつもね、キンギョのうんこみたいについて行くんですよ。で、もう「けんじさん、けんじさん」言うてね、もう大人気だったんですが、彼のことを慕ってる子どもの中に一人ね、盗み癖が直らない子いたんです。万引き。人が見てないと、つい、泥棒しちゃう。それで学校の先生が彼に諭したり、叱ったり、懲らしめたり、ってことでね。なんとかこの万引き癖を直そうということでやるんですが、どうやってもね、直んない。
キリストは罪人を愛された
ある時、宮沢賢治が学校から帰って自分の宿舎に家路について行く途中にね、その例の子がね、他人の畑の中に入り込んで、大根引き抜いてる真っ最中やったんです。そう、引き抜いてる、やってる最中に賢治がそれを見る。そして引き抜いてる子どもは、あ、見られた、ってわかるんです。目と目がバチッと合って。その時ね、二人とも置物のように固まったそうです。大根抜いてる方は、この状態。賢治は賢治でこの状態。お互い、見つめ合いながら、一分経ち、二分経ち、三分経ち、でその大根引き抜いてる子がね、その引き抜くのを止めて、深々と宮沢賢治にお辞儀をし、いい顔になって帰って行ったという話があるんですよね。
ここは人に見られたくないな、ていうところを見られたとしますよ。しかもその見た人が自分の尊敬する人だったとしますよ。これどんな気持ちしますかね。行方くらましたり、言い訳したり、逃げたり、隠れたりすることできたらどんなにいいか、と。ところがこの子ね、逃げ出さなかったんです。自分がやってる一番汚いことを自分が大好きな賢治先生に見られてる時、逃げることなく、隠れることなく、言い訳することなく、深々とお辞儀をして、そしていい顔で帰って行ったのは、なぜだと思いますか。おそらくね、がっかりさせるところを見たとしても、決して見捨てない人がいるんだということを生まれて初めて経験したからだと思うんです。
私たちは人前ではいいことをやりますけど、でも自分でも自分のことを軽蔑したくなるようなことを言ったり、やらかしたり。しかし、宮沢賢治はどんなに失望させるような姿を見ても、その行為そのものについてはいけないことだ、だからずっと見てたんですけどね、決して軽蔑することがなかった。捨てることがなかった。なんでわかるか。まなざしでわかるんです。
ところで、自分で自分の罪と向き合っていくとき、みなさん、私たちは元気が出ますか。しかしキリストはね、その罪人を愛して、その罪をすべて赦すためにこの世界に来てくださったんですよって言うんですよ。
ぜひ、このイエス・キリストを自分の救い主として信じてください。心からお勧めいたします。
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2025年05月04日
父なる神に愛されているという平安
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1297

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#1297
父なる神に愛されているという平安
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
皆さま、改めましてこんにちは。
今日はですね、セイジ・オザワのオープニングパレードがあるにも関わらず、そちらへ行かずに、こんな無名の所に来ていただきまして、本当に感謝しております。
実は小澤征爾さんのお母さんはクリスチャンです。彼は4人兄弟、男ばっかり4人兄弟なんですよね。そして小さい時から讃美歌を男性コーラス四重奏で歌うという訓練を受けていたようですね。実は私の友人にクリスチャン女性がいましてね。その方のお名前「いのり」って言うんです。彼女はバイオリンを弾いてたんですが、小澤さんは全国の若手音楽家を訓練する会というのをいくつか持ってましてね。ある時彼女が弾いてたら「君名前なんていうの」「いのりです」「あぁ!いのり?君クリスチャンの家に生まれたんですか。実は私もキリストに育てられたんです」と言ったそうです。
まぁ彼が個人的にクリスチャンになったかどうか別として、今日はこのように来ていただきまして感謝しております。
心を騒がせてはなりません
私は大阪にある東住吉キリスト集会というところから来たのですが、この集会の目と鼻の先に女子校があるんです。その女子校の卒業生のなかにジャズシンガーになった人がいます。綾戸智恵という人なんですね。まぁ大阪弁バリバリのおばちゃんでね。私よりもっと大阪弁です。
この方が3.11東日本大震災のときに、なんとかミュージシャンとして励ましたいと思ってね、東北地方チャリティーコンサートをやったんです。まだ復興十分じゃない時に行ったんですが、コンサート会場着いてみたらもう大入り満員でね。思わず「家を建て直さなければならない時に、こんな所に来てても大丈夫ですか?」と聞いたら、客席から「家を建て直す前に心を立て直したい。心に勇気が湧いてくるような音楽を頼む」というふうにおっしゃったんです。
そして彼女が最初に弾いたのが、『His Eye Is on the Sparrow』といってね、日本語では『一羽のすずめ』と訳されてるんですが、この全世界をお造りになった真の神様という方は、一羽のすずめにも目を留めておられる。ましてや私たち人間のことをどうしてお忘れになることがあるだろうかという、そういう讃美歌があるんですよね。その英語のものを歌ってくださったということなんですけど、今日はこのゴスペル、特にイエス・キリストについて語ってるメッセージをご一緒に考えたいと思うんです。
聖書のテキストです。前のテレビジョンの方でですね映しますので、開けたい方はヨハネの福音書の14章の1節です。実はこの箇所はイエス・キリストが十字架処刑される前日に、ご自分の弟子たちに対して語られたことばなんですよね。実際に読んでみましょう。こう書いてます。
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
この心を騒がせるというのは、パニックになったり、心配事で心が占領されていたり、あるいは何か思い煩いとか、まぁ何かこの憂鬱になるようなことで、心が完全に満たされているような状態ですよね。私たちは心配事でいっぱいのときに、ご馳走を食べてもあんまり味がしないんじゃないですか。美しい音楽を聴いたり、美しい風景を見ても、あんまり響きませんよね。だから心を騒がせないようにしなさいというふうにキリストはおっしゃったんですが、今日はどういうときに心騒がせるんだろうかということで、少し考えてみたいと思います。
神様は人を本当に愛しておられる
絶対的に信頼できる方を見失うとき、私たち心騒ぐんじゃないかな。子どもってどういうときにパニックになるかといったら、迷子になってお父さんかお母さんを見失うときですよね。
実はですね、8月17日って何の日かわかりますか?たぶんわからないと思います。あのロバート・デ・ニーロというね、ハリウッドスターの誕生日なんです。確かね、81歳じゃないかな。私、俳優としては彼が好きでね。とにかく役作り徹底する人で、この人ね『タクシードライバー』という映画に出演するときね、実際にタクシードライバーの免許取って2ヶ月間ニューヨークのタクシー運転してるんですよね。それから『ゴッドファーザー』という、あのマフィアの映画出るときにね、シチリア島まで行ってマフィアの使うイタリア語をマスターしてから映画出てるんですよね。それからホームレスの映画出るときにはね、2ヶ月間ニューヨークの公園でホームレスの生活してから映画出てるというね、とにかくね役作りに一生懸命に徹底してやるというね。
まぁそういう方なんですが、実はね彼の両親は画家なんです。そしてね、自分が2歳のときに離婚します。お父さんは去って行くんですが、お父さんすぐ近くに引っ越して、だからいつでも会いに来れるにもかかわらず、一回も会いに来なかった。会おうと思ったらいつでも会いに来れる距離に住んでるのに、まぁお母さんとは仲が悪くなったので会いに来ない。これはわかります。でもどうして僕に会いに来ないんだ。謎です。そして彼が20歳のときにアメリカを出ましてね、パリに行きます。画家ですからね、パリで自分の腕一本で勝負したいと思って引っ越しするんですね。そして彼が50歳のときに亡くなるんです。
お父さんと話をした記憶ゼロ。でもお父さんがパリで亡くなったということで、彼が50歳のときにパリまで行って、お父さんの持ち物や財産、遺産、全部整理するんですが、その時4冊ノートが出てきたんです。ちょうどロバート・デ・ニーロが20歳から30歳までの10年間にあたる期間の4冊で、そのノート見るとね、ロバート・デ・ニーロのことばっかり書いてあるんですよ。「僕のあんな可愛い赤ちゃんがハリウッドでこんなに成功して、あんなに愛しいあの子がこんなにも有名になって。あぁ彼を抱き寄せてハグをして、頭を撫でて、祝福のキスをしてあげたい。でも彼がそんなことを喜ぶとはとても思えない。あぁ僕は愛情を伝えるためにどうしたらいいんだろう」みたいなのが、もう繰るページ繰るページ、繰るページに書いてあるんですよね。その中に出てくるお父さんというのはね、不器用でどうやって愛してるよって言ったらいいのかよくわかんない。
実はね、お母さんがお父さんのことをね、あんまりいいように言ってくれなかったんです。近所にお父さんがいてる家はたくさんあるけど自分はシングルマザーに育てられていて、そしてお父さんのこと全然見えないしわからないし、だけどそのノート見てね、みんなが言ってるような子どもに対して冷たいお父さんではなくて、実は不器用で、ある事情で会いに来れなかったということがノート見て初めてわかってね。父さんは僕のことを愛していた。
実はね、ロバート・デ・ニーロのお父さんの名前ね、ロバート・デ・ニーロというんですよ。彼は、その俳優の方はね、ロバート・デ・ニーロ・Jrなんです。つまりね、親子で同じ名前。なぜ自分の名前付けたんですか。愛してたんです。自分のことのように愛してるよっていうことで、やっぱり父は僕を愛してくれてたんだということがわかると、なんかね人生の中で欠けていた部分が埋められたような気持ち。私たちもね、実は神様についていろんな誤解があるんじゃないかな。ちょうどロバート・デ・ニーロが、お父さんは僕のこと愛してくれていないと勘違いしていたけど実はそうじゃなかったように、神について私たちは大きな誤解があるんじゃないかと思うんです。
神様という方は私たちのことを本当に愛しておられる方で、いいですか!あなたのことが大好きなんです。神はあなたの祝福、幸せを願ってらっしゃって、そしてそれを願うあまり、人となられた神、イエス・キリストを遣わしてくださったんです。ぜひ、このイエス・キリストを自分の救い主として信じてください。心からおすすめいたします。
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2025年04月14日
科学と信仰
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1296

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#1296
科学と信仰 (三綿直人)
ごきげんいかがですか。三綿直人です。
先日、長野県のあるところで講演した後、参加していた1人の大学生に質問されました。
「三綿さん、日本で有名でかつ影響力ある人たちの多くは、神の存在を信じていませんよね。彼らは賢いし、科学的、論理的に物事を考える人たちです。その彼らが神の存在を認めていないということは、やはり神がおられるのは科学的論理的ではないということではありませんか。三綿さんは神を信じておられるんですよね…」という感じなんですね。
確かに彼があげた影響力を持っている、賢いと思われている人々の中には、神を信じない人で、歴史上最大の嘘はキリスト教だと言っている人もその中に入っていました。この若者のように考える人たちは日本では多いのではないかなぁと思わされます。
聖書はこの世界は神によって造られた。命は偶然発生したのではなく、神によって造られたと教えていますが、それは果たして非科学的なのでしょうか。証拠や根拠はないのでしょうか。科学的論理的に考えると神はいないという結論に本当に至るのでしょうか。
今日は『科学と信仰』とタイトルをつけて3つのポイントで考えてみましょう。
この世界には秩序がある
まず1つ目のポイントは、この世界には秩序があるということです。
科学や論理は秩序があるので発展しますよね。科学も論理も無秩序では成り立ちません。衛星を飛ばしたり、自動運転を実現したり、ロケットを打ち上げることができるのは、この世界に秩序があるからです。秩序があるので計算できます。これは神を認めない人も神を認める人も同じ結論です。この世界には確かに秩序があるのです。
そして、この世界の目に見えない法則、秩序を発見してきたのが科学者たちなのです。では神を認める人と認めない人の違いはなんでしょう。それは、この秩序が偶然によって出来上がったと考えるか、誰かによって設定されたと考えるかです。どちらが本当に論理的だとお思いになりますか。
秩序が偶然によってできたと考えるのが本当に論理的なのでしょうか。誰かが設定したと考えるのが論理的なのでしょうか。 1つ目のポイントは確かにこの世界には秩序があるということをおさえておきたいと思います。
この世界は言葉でできている
2つ目のポイントは、この世界は言葉でできているということです。
私が29歳の時、オックスフォード大学教授で数学者のジョン・レノックスという方の講演を、直接聞く機会に恵まれました。一緒に写真を撮ってくれて本当に気さくな方でしたね。彼は数学者で、ある意味、究極の論理的思考の人だと言えるでしょう。彼は科学者であり、神の存在を信じていて、このように説明しています。「この世界は言葉でできている」どういう意味でしょう。賢い人の言う事は重みがありますね。
彼の説明によると「ニュートンは万有引力の法則を数式という言葉で説明した人」と言うんです。万物がそれぞれ引き合っている力、これは目に見えませんね。でもこの目に見えない引き合う力を数式で言語化したのがニュートンなんです。ですから数学者なら誰でもこの世界は言葉でできているということに同意すると言うんです。
そして、言葉には秩序があるので、この世界に秩序があるのだと言うんです。アルファベットをデタラメに並べても言葉にはなりませんが、秩序ある並びであれば言葉として認識できますね。ピアノの鍵盤をデタラメに叩いても感動しませんが、楽譜という秩序に従って音が鳴ればハーモニーを奏で、私たちの心に感動を呼び起こすんです。
人間のDNAを解析したフランシス・コリンズという人は、アメリカ大統領に報告する時、このように言いました。「DNAは神の言語です」確かにこの世界も、音楽も、命も言葉でできているのです。聖書にこんなことばがあります。
「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。この方によらずにできたものは一つもなかった。この方によってできたものはいのちであった。」
実に聖書は2000年前からこの世界はことばでできていると語っているんです。そして、このことばは神であったと教えています。
さて整理しましょう。この世界には秩序があります。そして、ことばにも秩序があります。秩序を定めた方、神がことばによって秩序ある世界を造ったと聖書は教えているのです。もし神を認めないなら、秩序はどこから来たのか。そして、ことばはどのようにして生まれたのかを説明しなければなりません。私は聖書が教えている通り、この世界はことばでできているというのが非常に論理的な説明だと考えていますが、皆さんはいかがでしょうか。
科学の致命的欠陥
3つ目のポイントでメッセージを結びましょう。科学の致命的欠陥ということについて考えてみたいのです。
ジョン・レノックス教授は数学者ですが、科学には致命的欠陥があると話します。それは『なぜ』については分からないのだと言うんです。どういうことでしょう。彼はこんなたとえ話をして説明しているんですね。ある女性がノーベル賞受賞者たちにケーキを作ってご馳走します。そしてこの科学者たちに科学的にケーキを分析してほしいと依頼するんです。彼らはケーキがどのような物質でできているか丹念に調べます。何をどのようにの分析は完璧です。
しかし彼らにケーキを作った女性が問います。「このケーキは何のために作られたんでしょう」彼らは一斉に答えます。「それは作ったあなたに聞かないと分からない」その通りですよね。科学では説明できないし分からないんです。科学はこの世界がどんなものであり、どんな法則があり、どんな構成となっているのか、いろんなことを調査分析できます。
しかし、なぜこの世界が存在するのか、何のために存在するのかは科学では分からないんです。それが科学の致命的欠陥です。科学が全てだと考えている私たち日本人も、よくそこは考えなければなりません。
なぜこの世界は存在しているんでしょう。それはこの世界を造った方に聞くしかないのです。この女性がケーキを作った理由は、自分がイエス・キリストを信じた記念としてということだったんですね。ぜひ、あなたもこの神の存在を認め、この神に聞いてほしいと思います。
この世界は何のために造られたのか。あなたは何のために存在しているのか。聖書の神は確かにその答えをお持ちです。あなたが科学という枠だけにとどまらず、この聖書の神に聞く。信仰を持って聞く。そのような人になっていただくように心からお勧めします。
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2025年04月06日
勝利の人生へ導く名コーチ
《福音 みことば》
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#1295
勝利の人生へ導く名コーチ
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私は先日『変わった釣り人』というエッセイを読みました。その釣り人は次々に魚を釣り上げるんですが、大物が釣れると川に逃がしてやるんです。彼が持ち帰るのは全部小物の魚ばかりなんです。普通の釣り人がすることと逆のことをしてるんですね。
見ていた人が不思議に思って、訳を尋ねるとこう言ったというんです。「実は我が家のフライパンの直径は20センチしかありません。つまり20センチより大きい魚は料理できないんです。だから20センチ以下の小魚を選んで、大きいのは逃がすんですよ」
一見合理的ですが、実にナンセンスな選択だと思います。彼がすべきは大きい魚を捨てることではなく、大きいフライパンを買うことです。なぜなら、小さいフライパンにこだわってるせいで食べられたはずのご馳走を食べることができなくなっているからです。
捨ててしまっているものの中に宝があるかもしれない
ところで、これと似たようなことを私たちもすることがあるのではないかなあ、と思うんです。自分の世界観に収まるものは受け入れるけれど、自分の考えをはるかに超えたものは捨ててしまうんですね。
もしかしたら、捨ててしまってるものの中にこそ、自分にとって最もすばらしい宝となるものがあるかもしれないんです。そしてその最たるものは、神だと思うのです。神なんかいるはずがない、という今までの世界観にこだわってると、天地万物の創造主なる神の話を聞いても、「ああ、これは私には関係ない」と心のシャッターを下ろしてしまい、よく考えることもないままに、祝福を逃してしまうことになるからです。聖書はそんな人間に対する、神からの語りかけなのです。
今日はイエス・キリストが人間に語られたことばから、ご一緒に考えたいと思います。ある時イエスはこう言われました。
「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」
ここにイエス・キリストがこの世界に来られた理由が語られています。
ところでキリストは、「人間を救うために来たのです。」と言わず、「失われた人を捜して救うために来た。」とおっしゃたのです。失われた人、とはいったい、何を失った人のことなんでしょう?神との関係を失った人なんです。
コーチなしのアスリートに勝ち目なし
私の住んでいる大阪に、全盲のスイマーで、パラリンピックの日本代表選手、生長奈緒美さんという方がいらっしゃいます。生長さんは、先天性の緑内障によって24歳で失明してしまいます。しかし、32歳で水泳を始め、北京、ロンドンのオリンピックでは上位入賞を果たし、二年後のリオデジャネイロ、六年後の東京オリンピックの日本代表入りをめざし・・・今も第一線で活躍しておられます。
ところで全く見えない方にとって一番こたえるのは、音が聴こえないということです。そして水の中では音はほとんど聴こえなくなるんです。
ところが、生長さんにとっては水中は決して居心地の悪い環境ではないというんです。陸上では、人にぶつかったり、溝に落ちたりすることを恐れて、全力で走ることはできません。しかし、水の中ではすべてのエネルギーを、水が受け止めてくれるので、思う存分手足を振り回すことができるからです。彼女は水の中で、自由を得たんです。
しかし、この水中の自由を保障する上で、なくてはならないものが一つあるとおっしゃるのです。それは、プールサイドから飛んでくるコーチのことばなのです。コーチのことばだけが、自分の位置を知る唯一の手がかりとなるからです。見えない状態でただ闇雲に全力で泳いでいると、コースロープを越えて、隣のレーンに進入してしまうことがあるんです。レーンを間違ってしまうと、たといトップでゴールインしたとしても失格です。自分が正しいコースを進んでいるのか、ゴールまであとどれくらいの距離なのか、すべてはコーチのことばの指示を頼りに判断するのです。
したがって、最大の障害は、コーチの声をかき消すようなお客さんたちの歓声なんです。もし歓声によってコーチのことばが聴き取れなくなると、ベストを尽くした戦い方ができなくなるというのです。彼女の競技人生は、コーチとのつながりによって、初めて成立するものなのです。
それと同じように、私たちも人生のコーチである神とつながることによって、初めてまともな、そして全力を尽くす戦いをすることができるのではないでしょうか。なぜなら、私たちも明日どうなるかが見えないままに生きているからです。ところが、人は自らのこの人生の与え主にして、人生の名コーチである神との関係を断ち切っているのです。このように、神との関係を失っている人を、聖書は「失われた人」「神の前から失われている人」というのです。
コーチなしのアスリートに勝ち目はありません。いのちの創造主から離れた人間は、どんなにがんばっても、死んだ後に行き着くところは、神のいない世界です。永遠の暗闇です。死後に受けるさばきの世界です。この永遠の死の世界から私たちを救い出すために、神は人となってこの世に来てくださったのです。
キリストは捜して救うために来られた
今年は中国の天安門事件から36年目の年です。当時北京にいたジャーナリストたちが、さまざまな記事を発表しています。
天安門広場は世界最大の広場です。ここに事件の起こるひと月前から、50万人もの若者たちが集結していました。取材のために日本や欧米のジャーナリストがたくさん現地の中にいる中で、6月4日、人民解放軍が人々に攻撃を始めたのです。そして西側のマスコミカメラが、惨たらしい虐殺現場をリアルタイムで世界中に配信したのです。
当時そこにいたジャーナリストの書いた記事を、先日私は読みました。広場には、軍の銃撃で両足を粉砕され、もはや逃げることもできなくなった学生がいたというのです。阿鼻叫喚の中、彼はうめきながら身動きすらすることができず、ただただ叫ぶばかりでした。その時、一人の農夫が現れ、彼を抱き起こし、背中におんぶして病院まで運んでくれたというのです。そして名を名乗ることもなく、姿を消したというのです。一人の人の犠牲的な親切がこの若者のいのちを救ったのでした。どれほどうれしかったことでしょう。
キリストは死が支配するこの世界に、一度人として生まれてくださったのです。それは死と恐怖が支配するこの世界の中で、私たちを抱き起こし、背中に背負い込んで、永遠のいのちと平和が支配する神の国に迎え入れるためなのです。人の子は失われた人を捜して、救うために来られたのです。人間を救うためには、人間の罪の償いがどうしても必要でした。キリストはあなたに代わって、あなたの罪の償いを十字架の上にかかって、果たしてくださったんです。そして、死そのものを打ち砕くために、死後三日目に復活されたのです。
どうぞあなたもイエス・キリストを信じ、永遠のいのちを受け取ってください。心からお勧めしたいと思います。
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2025年03月30日
愛されているという自己像
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1294

↓ YouTube より↓
#1294
愛されているという自己像
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
以前函館に参りました時、石川啄木の記念館に行きました。学芸員の方がいろんなエピソードを交えて説明してくださったのでとても印象に残っています。
この啄木の詩に次のようなものがあるそうです。『石川は不憫な奴だ ときにこう 自分にいいて かなしみてみる』自分のことを不憫な奴だと考えると悲しみが出てくるという、ごく当たり前のことを詠っています。
人間は否定的な考え方をすると否定的な感情が生まれ、破滅的な考え方をするとやけくその気持ちが湧いてくるものです。ある心理学者によると、人間ていうのは四六時中自分に話しかけている動物で、その話しかけている内容のほとんどが否定的なんだそうです。そして、否定的な考え方は否定的な自己像から生まれてくるものです。
この自己像というのはいったいどうやって形成されていくんでしょう。それは、親や友人、他人との関わりの中で植えつけられていく面があると思います。
元FBI捜査官、ロバート・レスラーという方によると、凶悪犯罪者の家庭にはいくつかの共通点があるようです。犯罪者の半数が12歳以前に父親が家を出たか、18歳以前に自分が家を出ているというのです。多感な少年時代に一家の中心人物から認められず、励まされず、愛されない場合、その少年の精神構造と世界観に重大な影響が及ぶって言うんですね。
孤独な子ども時代を過ごした者が、みんな犯罪者になるのではありません。しかし、大きな犯罪を犯した者は皆、孤独な子ども時代を送っているんです。ではどうすればいいんでしょう。イギリスではテロや犯罪に走る若者たちを未然に防ぐために、メンタリングという方法が取られているそうです。これは人を育成し指導する方法の一つです。
ただし、指示をしたり、命令したりすることで人を動かすのではありません。メンターと呼ばれる指導者が一対一で向き合って、親身に対話をして、相手に気づきを起こさせていくという方法なんです。メンターというのは心の師匠のような存在です。そして、それは代理の父親なのです。自分のことを親身に思ってくれる人からの励ましと勇気づけが人間の健康にはとっても大事なんだって言うんですね。
人は自分一人で自分を励ますことは本当に難しいことなのです。しかし、人間の自己像を否定的なものに陥らせるもう一つのものがあります。それは人間一人一人の中に備わっている罪への傾向なのです。
あなたは自分にがっかりするというようなことはありませんか。私は昼間に自分が言った言葉の中で、「あぁ、言うべきでなかったなあ」とがっかりします。自分よりもてきぱきといろんな仕事を首尾よくこなして成功している人を見ると、素直に祝福できない自分にがっかりします。何十年も前のことなのに恥をかかされたことを不意に思い出して、心の中で相手をとっちめてる光景を想像して、何をやっとるんだ私は!と愕然となる。そのようなことはありませんか。
人間は自分が軽蔑していることをやめることができずにいると、行為を軽蔑するだけではなく自分自身そのものを軽蔑するようになってしまいがちです。いったいどうしたらいいでしょう。聖書はこう言っているのです。
「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」
この箇所から三つのポイントで自己像の改善をお話ししましょう。
創造主がまことにおられる
第一に、あなたをお造りになった創造主がまことにおられる。そして、この神はあなたを神のかたちに似せてお造りになりました。
あなたには神を現す何かが内側に備わっているのです。神のかたちとは人格のことです。あなたは人格を持つものとしてこの世界に造られて置かれているのです。この一点だけであなたは宇宙にあって宇宙を超える存在です。と言うのは宇宙には人格がないからです。太陽はとっても熱い天体ですが、太陽自身は自分が熱いということを知りません。水素とヘリウムの塊である太陽には自意識がないのです。
ところが、あなたには自分が小さいとか、弱いとか、客観的に自らを知ることができるのです。そして、それは あなたが神のかたちに造られているからです。そして、このことのゆえにあなたはユニークな存在であり、神様の前に非常に高価で尊い価値ある存在なのだと聖書は宣言しているのです。
キリストは罪人のために死なれた
第二に、私たちがまだ罪人であったときに、キリストは私たちのために死んでくださったという事実です。
私たちがほれぼれするような人であったときに、神は愛してくださったと語ってるのではありません。私たちがまことの神を捨て、自分の造り主を忘れ、自分で好き勝手にこしらえた神を拝み、自己中心の人生を生きてる。そんな罪のどん底状態のときに、神のひとり子はこの地上の無限の彼方から、人としてこの世に生まれてくださいました。
そして、何一つ罪を犯したことがなかった方、いや良いことしかなさらなかった方なのに、人々から呪われ、拒まれ、殴られ、裸にされ、釘で両手足を打ち抜かれ、十字架にかかられました。そして、その十字架の上で私たちのすべての罪を負って身代わりに刑罰を受けてくださったのです。
これは神様の愛の宣告です。あなたの罪を消し去るためにキリストがここまでしてくださるほどに神はあなたを愛しておられるという愛の宣言なのです。もしあなたが神にとってどうでもいい存在であるなら、神様は決してこんなにも大きい犠牲を払うことはありませんでした。あなたは最も絶望的なときですら神に愛されている人なのです。
神は私たちを新しく造り変えられる
第三に、神様は私たちを新しく造り変えてくださる方だということです。
神は人間が愛されるにふさわしくないときに一方的に愛してくださいました。それはこのキリストを救い主 として受け入れる者の中に、愛されるにふさわしい者をかたち造っていかれるためであったのです。いったいどのようにして私たちを愛されるにふさわしい人格へと造り変えていってくださるでしょう。キリストを十字架上の死から三日目によみがえらせた力を、私たちのうちに働かせることによって、私たちを変えていってくださるのだと聖書は語っているんです。
人はどうやって自己像を健全に変えていくことができるでしょう。神に似せられて造られたということを心に留め、神に愛されているという事実を受け入れ、神によって理想の自己像に変えられていくことを信じて受け取ることで、セルフイメージが健全に変えられていくんですね。どうぞあなたも、あなたのために救い主となられたイエス・キリストを信じてください。心からお勧めしたいと思います。
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2025年03月23日
弱くて結構!栄光の神があなたを生かす
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1288

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#1288
弱くて結構!
栄光の神があなたを生かす
(慶相龍)
ごきげんいかがですか。慶相龍です。
さて、私は福音を伝えながら、人がキリストを信じる現場に立ち会うことがあります。喜びに涙を流す人、笑顔溢れる人、本人は平然としているのに周りが泣いて笑って大騒ぎする現場など、さまざまです。
中でも忘れられないのは、心を痛め悩んでいたある女性の告白です。「キリストが私のために十字架で死んでくださった。それほどに私を愛してくださることを知ったとき、私、生まれて初めて生きてていいんだと思いました」そう言って、涙を流されたのです。
キリストは、あなたが生きることを心から願っておられるのです。
聖書のことばを紹介しましょう。
「わたしは、だれが死ぬのも喜ばない ―神である主のことば―。だから立ち返って、生きよ。」
三つのことを考えます。
神はあなたが死ぬのを望まれない
一つ目に、神はあなたを愛し、あなたが死ぬのを望んでおられません。
大きな話題となった事件です。今から11年前の3月2日、オホーツク海に面している北海道の湧別町でのことです。発達した低気圧の影響で暴風雪が荒れまくっていました。ここで悲劇が起こったのです。車に乗っていた父親と、当時小学3年生だった娘さんが行方不明になったのです。二人は翌日、乗っていた車から約300メートル離れた倉庫の前で発見されました。娘さんは無事でした。しかし、父親は亡くなっていたのです。
現場を目撃した消防員によると、父親は娘さんを壊れ物を包み込むかのように、実に大切に大切に抱きかかえながら亡くなっていたそうです。現場を見た人たちは皆泣きました。後になって娘さんは、父親に対してこんな手紙を書きました。「お父さんのことは、夜ベッドに入ると、優しい顔が浮かんできて涙が出ることもあります」お父さんは、娘さんが死ぬのを望まず、自らを犠牲にして亡くなっていかれたのです。
キリストは十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。」と父なる神に祈ってくださいました。そしてあなたの罪を背負って、十字架で死んでくださったのです。
キリストはあなたが神から離れて、霊的に神との関係が死んでいる状態にとどまること、また死後に第二の死と呼ばれる地獄に落ちることを望まず、あなたを救うために死んでいかれたのです。なぜでしょうか。あなたを愛しているからです。
湧別町のあのお父さんが、娘さんを愛しておられたことには疑いの余地がありませんね。それと同じように罪のないキリストが、死ぬ必要などなかったキリストが、あなたのために死なれたという歴史的事実に目を留めていただきたいのです。キリストは実に、これ以上どうすれば分かってくれるのだというほどの愛を、あなたに示して死んでいかれたのです。
神はあなたの悔い改めを望まれる
二つ目に、神はあなたが悔い改めることを望んでおられます。
先ほどの聖書箇所に「立ち返って」ということばがありましたが、この「立ち返る」ということばは、ヘブライ語の「シューブ」ということばで、悔い改め、つまり「心の向きを変える」ということなのです。
アメリカの詩人、また作家であるウィルコックスの有名な名言を紹介しましょう。「吹いている風が全く同じでも、ある船は東へ行き、ある船は西へ行く。進路を変えるのは風ではない。帆の向きである。人生の航海でその行く末を決めるのは、凪でもなければ嵐でもない」。このような名言なのですが、では人生の航海でその行く末を決めるのは何なのか。ウィルコックスはこの後に「それは心の持ち方である」と続けるのですが、聖書は、人の行く末を決めるのは「心の向きである」と続けるのです。
人の心は生まれつき、自分に向いています。自分の力を信じます。情欲を達成するなら、その先に幸せがあると信じて、自分の欲を追求します。その行く末は、止むことのない情欲をいつまでも追い続ける空しい人生。そして神のいない地獄です。
その心の向きを、キリストに変えるのです。限りある自分の力ではなく、限りない神の力を信じるのです。空しさに空しさを増し加える情欲ではなく、あなたを愛し、恵みの上にさらに恵みを増し加え、あなたに満足を与えるキリストを信じるのです。人を地獄に追いやる罪と情欲ではなく、あなたを罪から救うために死んで、三日目に復活し今も天におられる方、やがて天に引き上げるために迎えに来てくださるキリストを信じるのです。
神はあなたが生きることを願われる
三つ目に、神はあなたが生きることを願っています。
それは単に存在することではありません。あなたの何かではなく、あなたを生かしてくださる恵み深い神様の栄光が、あなたから溢れ出るような生き方をしてほしいと願っておられるのです。
レーナ・マリア・ヨハンソンというスウェーデン出身のゴスペルシンガーがいます。私は彼女から大きな影響を受けてクリスチャンになりました。彼女は生まれつき両腕がなく、右足も左足の半分しかありません。ところが彼女の歌声は実に美しく、喜びが溢れているのです。ステージも立派です。
しかし、私は彼女の歌声や芸術表現に影響を受けたのではありません。ある記者が彼女に尋ねました。「あなたは自分のからだの障がいのことを、悲しいと思ったことはありませんか」すると答えるのです。「少し不便だと思ったことはあります。でも悲しんだり、落ち込んだりしたことは一度もありません。神様は何か目的があって、私をこういう形に作られたのだと思います。ですから、その目的が何であったのか、これから知らされるのが楽しみです」
私は驚きました。彼女は自分の体に障がいがあることさえも喜んでいるのです。自分に満足しているのです。その姿を見て私は思ったのです。彼女は神のおかげで自分に満足しているんだなぁ。自分が障がいを持っていること自体をも喜び、満足させる神様って、本当にすごい方だなぁ。もし彼女と同じ神様を信じることができたら、私もこんなに弱い私自身を受け入れ、喜び、自分に満足できるのかもしれないなぁ。そう思うと、もし神様がいらっしゃるならそのことを私に分からせてくださいと祈らずにはおれなかったのです。
聖書にはキリストを信じた人たちの集まりを、キリストをかしらとするキリストのからだに、一人ひとりのクリスチャンをそのからだを構成する一つ一つの部分に例えて表現している箇所があります。その中にこういうことばがあるのです。
「それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。」
もしあなたがご自分のことを、ほかの人よりも弱くて劣っている。そのように考えておられるとするならこの箇所を思い出してください。神にとって、ほかより弱く見えるあなたが、なくてはならないのです。あなたの弱さにさえ、神の栄光となる目的が隠されているのです。どんな目的なのでしょうか。それはあなたを愛し、あなたの罪のために死んで三日目によみがえられたイエス・キリストを、あなたの神として信じ従う人生の中で明らかになることでしょう。
この素晴らしい人生をあなたのものにしてください。心からお勧めいたします。
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2025年03月16日
死の解決は悟りではなくキリストの救い
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1287

↓ YouTube より↓
#1287
死の解決は悟りではなく
キリストの救い
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
皆様、こんにちは。私は6月にドイツに参りました。
いや皆さん、ドイツの鉄道ってね、あかんでぇ。まあ私が乗ったのは1時間遅れでしたけどね、3時間4時間へっちゃら。館内放送で「ただいま、運転士が遅刻して、こちらに向かっているので遅れます」正直に言うなあ〜ってねもう。
しかもね、14号車あるのに13両編成なんですよ。13号車ないんです。不吉やから。日本人、4っていうのをすごく嫌がるじゃないですか。大阪公立大学医学部附属病院ってあるじゃないですか。4階、病室ないんです。手術室や。もっとやばいやないかと。
まあ皆さん、私たち、なかなか死という問題についてはね、日頃考えないんじゃないでしょうか。人生も締め切りがあるものだと覚悟することによって、優先順位の高いものはいったい何なんだろうということを考えることができるんじゃないかと思うんです。
私は大阪教育大学というね、国立の大学に入ったんですが、バイブルクラスというのを作って、まあいろんな方々が来てくださったんです。
横浜からわざわざ大阪の大学に進学したクラスメイトがいたんです。女性でした。4ヶ月バイブルクラスに参加してくれたんです。
ところが、いよいよ夏休み近いというふうになった時にね「不愉快な気持ちになるんで、行きたくない」
「何が不愉快だったんですか?言ってぇ」っていうふうに言ったら「高原君、あなた、二言目には、『偶像を拝むのは創造主に対する罪だ』というふうに私に言うけど、私のお父さんは僧侶です。横浜でも指折りの由緒あるお寺の一人娘が私です。私は、あなたが言うところの偶像を拝む行為によって、この大阪まで勉強にやらしてくださってるんです。だけど、あなたの言ってることを聞いてると、まるで私の大事な父親が否定されてるように聞こえるから、そんな話はもう聞きたくない。不愉快ですから!」って言ってね。
「そうだったんですか…。他にありますか?」って言ったらね「いくらでもあるわよ!」って言ってね。もうね、人間サンドバッグ。ボコボコにやられてですよ。
イエス・キリストに祈る
はじめはね、こうやってこうやって聞いてるうちに、だんだん腹立ってきたんです。なんでここまで言われなあかんねんと。というのはね、聖書が語ってるんです。偶像を拝むというのは、自分に対する侮辱でもあると。
それは私が言ってんじゃなくて、聖書が言ってる。聖書が言ってるのに、なぜ私が責められなければならないんだという「今、私に言ったことね、全部ね、イエスに言えよ」と。そしたら、彼女がね「そんな失礼なことできません」って言うんですよ。
「俺やったら、ええんかい!」と。で、実はなんでそんなことを彼女が言ったかというとね、高校3年間ミッションスクールに通ってるんですよ。イエス・キリストがどんな方であるかということは、知識としては彼女は知ってたんですね。
だから「あのイエス様にそんな失礼なこと言うことできない」「でも、聖書見るとイエス・キリストという方は、クリスチャンの主である前に、罪人の友だと書いてあるんです。遊女や取税人やアウトサイダーみたいな人たちが、イエス・キリストと一緒に食事をしている場面がいっぱいあって、この方は罪人の友だから、あなたがその自分のスタンスのままぶつけても聞いてくださると思うよ。だから、それをそのままイエスに祈ったらいい」って言った時に「祈ったらクリスチャンになっちゃうじゃないの」と「ならんといたら、ええやん」と。
でね、折衷案です。「こう手組んで、目をつぶったら祈りになるから、気をつけして、目開けて祈る」って言うんですよ。「ご勝手に」言うてね。そこから彼女がね、イエスに話し出したんです。途中でね、笑い出したり、泣き出したり、もうどうなるかと思いました。
でもね「イエス様、私は父を尊敬しています。もし、私がクリスチャンになってしまったら親不孝することになります。私は父を悲しませたくありません。でも、あなたのことも悲しませたくありません。私はどうしたらいいのかよく分かりません。何とかしてください!助けてください!」って言って。まあ20分程でしょうか。わだかまっているものを吐き出すだけ吐き出したら「ああ、すっとした!」って言ってね、そのまま去って行ったんですね。
しばらくして、学内でばったり会ったので「あの〜」って言ったら「あっ高原君、私、イエスを信じたから」って言うんです。あんなんでいけるんかなぁと不安にはなったのですが、いや本当に内側から変えられてたんですよね。
そしてそれから、またバイブルクラスに来てくださるようになり、いよいよ夏休みに入る直前「両親に自分がクリスチャンになったことを告げるので、それ聞いたら両親どんなに悲しむか分からない。私も勇気がない。だから、みんな祈ってね」って言ってね。よく祈りました。
彼女のお母さん
夏休みが終わって彼女がやってきたんですが「お父さんには言えなかった」って。「でもお母さんには言った」そしたら毎月一回新幹線乗って、大学のバイブルクラスにお母さんが通い出したんです。偵察に来るみたいな感じです。
ところがねこの方いい方でね、高級なお菓子持ってくるんですよ。みんなもう、わーこんなん食べれるんやということで、だんだんだんだん打ち解けて一年半ほどですかね、はじめは警戒していたのが聖書の質問をなさるようになったんです。まあ考え抜いてる人でないと思いつかないような質問をたくさんしてくださって、もう私たちもそれが嬉しくてね。
ところがある時、ピタッと来なくなったんですね。胃がんでした。しかも末期です。私、それ聞いた時ですね、横浜まで行ったんです。ベッドに寝てらっしゃったんですけれどもガリガリで「高原君わざわざここまで来たのは聖書のお話をしにきたのでしょう。神様のことばを受けれるのですから、寝ながら聞くなんてそんな失礼はできません」って言ってね、正座して聞くんですよ、話を。
「Kさん、すべての人は神様の前に罪人なんです。でも神様はね赦すことに決めました。でも、ただ赦したのでは正義を踏みにじったことになるので、罪の赦しの根拠を与えるために、全く罪のない神のひとり子、イエス・キリストが十字架にかかって、お母さんの身代わりに死んでくださったんです。
そして、キリストは死んで3日目に死を突き破って復活しました。それを目撃した弟子たちが、確かなものとしてそれを伝えたんです。もし、お母さんがイエス様を信じたらすべての罪が赦されて、神の子とされ、永遠の天国に行くことができます。お母さん、いかがですか。イエス様信じませんか」って。黙ったんですね。
イエス・キリストを信じる
その時、「今日はここまでにしてくれないか」という声が聞こえたんです。なんとパーテーションの向こう側にね、ご主人いたんです。禅宗のお坊さん。出た〜っみたいな。いるならいるとひとこと言って〜みたいな。
それで「はい。ここまでにします」って言ってね、それからね「高原君、よく来てくれたね。中華街へ行こう」言ってね。食べ歩きました。でね、俺はこんな中途半端でいいかと責められながら、食べるシュウマイの美味いこと。
それからひと月後にね、ある宣教師の方が訪ねてくださったんです。お母さんね、自分のご先祖に対して申し訳ないことになるんじゃないかという心配があったんですが「ごく最近のご先祖とは違う信仰持つかも分からないけど、日本人の一番根っこの人たちは皆、バイブルの神を信じていたのです。イエス様はあなたのために愛して、たった一つしかないいのちをくださったのですから」「分かりました」って言ってね。イエス・キリストを信じたんです。
それから約一年ほど経った時ね、ご主人が末期がんだったんです。その時にも、その宣教師がわざわざ訪ねて行ってね「あなたの奥様は悟りを開いて死を迎えたのではなく、神が準備してくださった救いの中に入りました。あなたはどうしたいですか?」と。
そしたら、その禅宗、長い間修行を積んだこの方がね「私の修行や研究成果は、彼女の心を鎮めることができなかった。死に慄いている自分の最愛の人の魂を、私は支えることはできなかった。彼女を支えたのは死んでよみがえったイエス・キリストという歴史的事実だった。私は妻が行った所に行きたい」と言って、イエス・キリストを信じる信仰告白の祈りをしたのです。
ぜひ、このキリストを信じてください。永遠のいのちを受け取ってくださいますように心からお勧めいたします。
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2025年03月09日
心騒がせず命の恩人キリストを受け入れる幸い
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1286

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#1286
心騒がせず命の恩人
キリストを受け入れる幸い
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
はい、皆様こんにちは。実はですね、あの、千葉の方に先輩がいるんですね。彼がね「高原君のために何かちょっとプレゼントしたいなぁ。そうだ!クリスチャンの陶芸家がいるから、夫婦湯呑みを作ってもらうから受け取ってよ!」って。「ああ、いいんですか!」って。まあ、そのクリスチャンの陶芸家の方、椿さんっていうんです。
まあ、素晴らしい作家なんですけれども、この方湯呑み作るときにね色んなことを聞くんですよね。そして、この人物に一番ピッタリな物を、作家なりにイメージした物をお届けしようということでね、土掘りから始めるんです。注文して届くのに1年かかるんですよ。まだかなあ、まだかなあ思って、忘れた頃にやってくる。
ある日届いたんですけどね、桐の箱に入ってるんですよ。これで飲むぞ!と思ってぱっと箱開けたらね紙入ってまして「すぐに使わないこと」って書いてあるんですよ。「まず米のとぎ汁でこの器を煮沸してからお使いください」面倒くさいなあ。じらしてくれるやんかあ思いながらね、やりましたよ。
そしてね、それを使って飲み出したんですけど、なんとなくね器がいいと、中身安もんでも気分は千利休ですよ。「一服」って言って、ティーパックでやるんですけど。なんだかね楽しくてね。
赦しを受け入れられない
まあこれを飲みながら、私 子ども三人いてるんです。息子、息子、娘、三人いてるんですけどね、「いいかこの器は、お父さんだけが使う専用の物だから、君たちがこれで飲んではならない。これはお父さん以外に触れてはいけないから!」ってことで重々言うといたんですね。
ある日のこと、なんか隣の部屋でねパリンって音したんですよ。「割った?まさか!」と思って行くとですね、その木っ端みじんに割れた湯呑みの前に、末の娘がですね、こうたたずんでシクシクと「うぅ」泣いてる。私の姿見てすぐね「お父さんごめんなさい!割ってしもた!」「あんだけ言うといたやろ!」と「何で割ったんや!」と「これが床にあったから…」「あ、俺や」と思ってですね。まあ取り出して割ったんじゃなくて、私が置きっぱにしてたということがね、最大の原因なんですけど。でもね「ごめんなさい!」って謝ったから「赦す」と。
だけどその時からね、娘と私の関係が変になっちゃったんです。それまでは、お父さん子でね、まあよくしゃべる、よく笑う、よくはしゃぐ、もういつもはっちゃけて、もういつもね明るくってね、もうじゃれてきてね、そういう子なんですけどね、この事件以降ね 近づかないんですよ。ご飯食べる時も無言。私がね「もうね、いいから、もう赦してるから」って「うん、ごめんなさい」「ごめんなさいって何回も言わんでいいから。赦してるから」って「ごめんなさい」私の方にも近寄って来ない日が、次の日も次の日も次の日も。
ある日の晩、コンコンとノックがあって彼女が私の部屋入ってきたんですね。そしたら何したかって言ったらね、お年玉で貯めてたお金やあるじゃないですか。五千何百円ぐらいのやつ持って来てね「これで赦してください…」て来たんです。めちゃくちゃ悲しかったんですよ私。私がね、こんだけ赦してるって言ってんのにね、それ受け入れないんです。そして私思いました。これが罪だなと。
神は人を愛し罪を憎む
キリストはおっしゃいました。
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
どういうときに心騒ぐかと言いますと、二人の関係において、何か恥ずかしいこと、してはいけないこと、やましいことがあったときにね、関係にひびが入るんです。多くの人が無意識に、神のことを考えるのはちょっとなと思うのは、自分の人生を振り返っていったときにね、一つや二つ、人には言えない墓の向こうまで持っていかんとダメなようなそんな秘密があるからではないかなと、私は思うんです。
今まで恥ずかしいことなんか一回もしたことがないという人いたらね、その人はね、自分に対する正直さがないと思います。少なくとも私友達なれないそういう人。実はどんな人だって、人に見られたらまずいなというようなことがあるんじゃないですか。だけど彼女がもう自分はダメでっていうふうにね、そういうふうに自分のやったことについて悔やんでるときに、それ見てる私の気持ちというのはね、赦したくて赦したくて仕方がない気持ちなんですよ。
いや、もう赦してるんです。赦してるんですが、その赦しを届けたくて、この赦してるんだという事実を本人に分かってもらいたくて、分かってもらいたくて、たまらないというそんな気持ちです。
実は、神は私たちのことを愛しておられる。しかし、同時に罪を憎んでいる。でも罪を憎むというのは、なぜ罪を憎むかと言ったらね、罪が人間をダメにするからなんです。
すべての人は創造主の前で罪人であると言うんですが、神は罪人を見たときに、憎んでるのではなく、この罪に対する完全解決を届けたくて、届けたくて、創造主である神の前に人が喜んで戻れるように、その妨げ部分を除きたくてたまらないお方なんですね。でもそれ分かるまで、この罪ということが分かれば分かるほど創造主との間の関係がうまくいかないのです。
キリストを受け入れる
70年も前に、ネットがなかったような時代に、この通販のシステムを作った人がいるんですよね。ニュージーランド人なんです。このニュージーランド人の人が、まあ通販の大きなこの会社を作っていくんですけども、この人クリスチャンになるんですね。
従業員が3,000人ぐらいいてるんです。この従業員たちにキリストのことを伝えたいと思って、従業員向けに次々と小冊子を書いていくんですが、その小冊子の中にこんな話が残ってるんですね。作者はレイドローという人です。
ある時彼がね、ニュージュランド軍の兵士にキリストを伝えて、キリストに導いたことがあったって言うんですよね。ハリーと言うそういう兵士です。ところが話を聞いて「なるほど、なるほど、なるほど」って言うんですけど、決心しないんです。「いや、いいお話でした」と「でも、もうちょっと考えてみます」って決心できないんです。
そこで言いました。「ハリー、こんなふうに考えることできないだろうか。君が敵の塹壕を襲撃すると命令されたとする。そして、君は首尾よくその攻撃をして、そして味方陣地に帰ろうとしたが、その時に後ろから敵の銃弾が降ってきて、そして、君が重症を負って倒れてしまったんだ。ところがそこにビル・スミスという人が現れて、君を担いで安全な味方の基地の所にまで運んでくれた。
ところが運ぶその途中で、彼自身も背中に二発弾が当たって、重症を負って、二人とも病院に運ばれたとしよう。二人とも一命をとりとめた。ふた月程たった時に、ドクターが松葉杖をついた一人の男性を連れて君のベッドまで来てこう言う。『ハリー、この人を紹介するよ。ビル・スミスさん。君の命の恩人だ。自分の命の危険も顧みずに君を背負って安全圏まで運んでくれたんだ』
その時君がこう言ったらどうだろう。『私はこの人と知り合いになりたいかどうかよく分かりません。確かにいい話ではあるけれど、もう少し考えてみたいと思います』命の恩人を目の前にしてそんなことは言わないだろう。君だったらきっと握手をして『僕のためにそんなことまでしてくださってありがとうございます』ってお礼を言おうとするんじゃないか。
だからイエス・キリストのことを信じてほしいんだ。なぜならイエス・キリストは君の命の恩人なんだ。天からこの世界に来た、人となった神のひとり子を、そして身を危険にさらしただけではなく、実際に十字架にかかって君のすべての罪を償って、そしてよみがえって来てくださった方だ。だからこのキリストを今受け入れないか」「分かりました。信じます」と言ってその場でキリストを信じたと言うのです。
私たちの命の恩人となってくださった方、それがキリストです。どんなプレゼントも受け取らないと無駄になってしまいますね。なので皆さんにこのハリー君と同じようにキリストを受け入れるという選択をしていただきたいと願っています。 ぜひ、このキリストを信じてください。心からお勧めいたします。
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2025年03月03日
ピンピンころりでなく信じて魂の故郷へ
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1285

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#1285
ピンピンころりでなく信じて魂の故郷へ
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
今日はですね、聖書が語っている、個人に対するメッセージをお話ししたいと思います。ヨハネの福音書の14章です。
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたし(すなわちイエス・キリスト)を信じなさい。」
心を騒がせるって、どんな状態かといいますと、不安とか、心配とか、恐怖とか、パニックとか、思い煩いとか、なんかそんな状態。私たちの周りには、心を騒がせるものがいっぱいあるんですよね。この「心を騒がせてはならない」と書いてあるのですが、私たちいったいどういうときに心騒ぐのかということで。
皆さんですね、いま日本全国で一番健康長生きの県ってどこかご存じですか?大阪でないことだけは確かですよ。夏はねぇ、ここは人間の住むとこじゃない。死ぬか思う、この暑さはね。
長野県なんです。で、この長野県のお医者さんが提唱した一つの学問に、PPK学っていうのがあって、これ前にも言いましたよね。これねピンピンコロリの略なんです。大往生のことですよ。
このピンピンコロリってどういう意味かっていったらね、死ぬ直前までピンピン元気で、病気に苦しむことなく元気で長生きで、一切寝込むことなく、亡くなる当日にコロリっと逝く。これをピンピンコロリ、PPKって言うんですよ。
その反対語がNNKと言いまして、これねネンネンコロリの略なんです。ネンネンって何かといったら寝たきりのことなんですよ。10年も15年もずーっと寝たきりで、チューブ差し込まれてようやくコロリと死ぬことができるっていう、あぁこれ嫌だって。これだけはなりたくないピンピンコロリがいい、ピンピンコロリがいい。
ピンピンコロリはわずか3%
長野県の中でもね、一番長生きの都市がね、佐久市なんです。私ね、今年の8月ですね、佐久におりました。1カ月間。
佐久市に実はですね、ピンコロ地蔵っていうとこがありましてですね、そこにお参りに行ったら、ピンピン生きてコロリと死ねるっていうことでね、みんなそこに行ってお参りするっていう話を聞いたんですが、実はこのピンピンコロリの考え方に対して「ちょっと待ったー」っていうふうに異議を唱えているお医者さんがいるんです。
鈴木隆雄さんという方なんですけどね、この方は桜美林大学の老齢科学研究所の所長なんです。つまり老人の生命学といいますか、老人の健康医学ということについてビッグデータを集めながら、いろいろ勉強なさって研究発表されてるという、そういうドクターなんです。
この方によると、実際ピンピンコロリで亡くなる人っていうのは全体の3パーセントだそうです。なので「私はピンピンコロリだ」なんていうふうに、それを期待して生きていくっていうのはね、宝くじに当たるかどうかみたいな、そういう確率に希望をおいていくっていうことであって、そんなのやめときなさいっていうふうにおっしゃってるんですね。
「そうではなく、人は老いるものである。弱くなっていくものである。目も耳も遠くなっていくものである。しかし、そのような弱さが倍加されていくことの中で、できるだけ自立できるように努力し、自分が納得できる介護を受け入れ、たとい障害が体の中にあったとしても、いつもご機嫌で生きていくことができるように自分をもっていくっていうことが大事なことなんだ」というふうにおっしゃってるんですが、皆さんどう思いますか。
赤ちゃんが寝たきりで幸せな理由
私、それ聞いた時、ちょっと引っかかるんですよ。歳とっていってもね、いつもご機嫌であるように、できるだけ自立をして、人の世話にはならず、そしてこの、たとい体にいろんな悪いところがあったとしても、うじうじしないように自分をもっていくことが良いって、そら良いですよ、それは。問題はね、どうやったらそうできるかということじゃないかと思うんです。
昔読んだバレーボールの入門書にこう書いてました。レシーブするときには、ボールが体の中央にきてレシーブするのが良いって書いてあるんですけどね、どうやったら体の中央にボールがくるのかということが書いてないんですよ。参考になんない。日本にいながら外国語を習得するためには、反復練習である。分かってるわそんなことは、と。どうやったら、反復練習途中で投げ出さないで全うできるかということが書いてないんですよね。
何があったとしても、心騒がさないように生きるのが良い、って分かってるってそれは。でもどうやったらいいんですか。そのどうやったら、の部分がないんですよね。
でも私はこの寝たきり嫌だな、ネンネンコロリ嫌だな、って思ったときに、一つ思うことがあるんですよね。
それはね、私たちは誰しも一度、寝たきり生活を経験しているってことです。赤ちゃんのときですよ。赤ちゃんのときにね、首も座ってない、寝返りもうてない、下の世話全部人任せ「ばぶー、ばぶー、ばぶー」私ね、去年12月、孫生まれたんですよ、孫が。実感がありません。でもね、その子見てたらね、本当にね、幸せそうや。何の思い煩いもない。何月までに原稿書かなあかんとか、そんなん一切ない。「ええなぁ」と皆が羨ましがるんですよね。
無力なのに、なぜ羨ましいのか。寝たきり状態なのになぜ羨ましがられるのか。それはこの子が平安であるから。そしてこの子が平安である理由は、絶対的に信頼できる人を持っているんです。親です。赤ちゃんのときには親がいるから、少々自分が無力で何もできなくても、思い煩うことがない。
死の次に待ち受けるもの
でも親になった私たちは、私たちにも魂の親が必要ではありませんか。一枚の紙には表と裏があるように、実はね、表裏一体なんです。
私たちのいのちの裏側には死がへばりついていて、誕生した瞬間から死に始めたのです。今生まれたばかりの赤ちゃんは、余命百年ですよ。生きてる、というよりも死という不可逆的なものに向かって、刻一刻と進んで行っている。そしてその死の次に待ち受けているものが、永遠に神のもとから失われる世界であるのか、あるいは自分の魂の故郷である創造主のもとに帰るのかによって、死の持つ意味合いがまるで違うのです。
キリストはおっしゃいました。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」この「また」というのは、神としてのわたしを信じなさい。神が遣わされた神のひとり子、救い主を信じなさいということです。そして6節、その信じる内容が書いてあります。イエスは彼に言われた。
「私が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」
ぜひ、このキリストを信じてください。心からお勧めいたします。
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2025年02月23日
偏見を捨てて知った聖書が語る創造主
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1284

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#1284
偏見を捨てて知った聖書が語る創造主
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
皆様、こんにちは。実は、今、小学校でも英語が必修科目になったということで、全国的に子ども向けの英語教室というのが随分広がっているんですよね。先日、それをなさってる方のお話を聞くことができたんですが、体験入学ということでね、まだ幼稚園児の子を連れたお母さんがやって来たんです。
教育っていうのは興味と同居しないとあまり効果がないんですよね。クイズ形式で英語に入ってもらおうということでね、果物の絵を描いたカードを見せて、みかんだったら「オレンジ」とかね、りんご「アッポー」とかね、他に何ある…ぶどう「グレープ」とか言うてね、もも言うた時「バーミヤン」って言われたそうです。
バーミヤンっていうのは確かに桃の看板を目印にした中華レストランのチェーン店なんですけども「ピーチが答えなのよ」っていうふうに言ったら、この子がね「そんなんバーミヤンがかわいそうや」って、訳の分からんことを言い出してですね、あの桃がピーチにならない。
実は人間っていうのは、慣れ親しんだものを手離そうとする時に、抵抗が湧き起こってくるんですよね。この子は長い間、桃はバーミヤンだと思っていた。いきなりピーチ言われても頭切り替わらなかったんですよね。子どもですらそうであるならば、実は大人というのはもっと保守的になりますからね。今まで自分たちがずっと慣れ親しんできた価値観や世界観と、真っ向から違うようなものバーンと出てきた時に、まず抵抗したくなるっていうのはこれは自然なことだと思うのです。
実はこの日本においては、バイブルの神を紹介しても「神?あんなのいないよ」とか「いるんだったら見せてくれ」とか、神なんかいないという人生観で生きてる方々がたくさんだし、そういう考え方に慣れ親しんでいると、聖書の神ということばを聞いた時に、何かこの得体の知れない抵抗感というのが湧いてくるんじゃないかと思うんですよね。
無神論教の信者
実は私もそうだったんです。私が本格的に聖書が語ってる神って「あっ、これ確かな存在じゃないかな」というふうに思えたのは、高校一年の夏休みなのです。その時、私はアルバイトしてたんですけれども、バイト先の先輩にクリスチャンがいたんですね。彼はいつもね、仕事のデスクのところに聖書をバーン置いてね、こう仕事してるんですけど、私はそれが聖書だということすら分からなかった。弁当箱だと思ってたんですよ。
なんかねあの布製のねチャックのついてる物に入ってたからね、この人、そんな仕事中に弁当箱出して何考えてんねんと。聞いたらですね「高原君、これは聖書っていうんだよ。君、この際だから良かったら読んでみないか」っていうふうに勧められた時に「ああ、僕、宗教好きじゃないんで、僕、神様信じてないんで結構です」っていうふうに断ったのです。
すると彼は「いや、君は神はいないと信じている。私はクリスチャンだから神はいると信じてるけれど、君は無神論教という宗教の信者ということもできるのではないか?私は神がいるという根拠があって信じてるんだけれども、君、神がいないと信じている以上、根拠を持ってるはずだ。だから、それについてちょっと説明してよ」っていうふうにね。そこから話が始まったんですが、うまく神がいないんだということを論証できるような、気の利いた話をすることができませんでした。
地球に関する聖書の記述
まあ敗北するのが嫌で「だったらあなたは神がおられるのだ。聖書は確かな書物なのだということを私が納得できるように説明できるんですか?」と言ったのが運の尽きです。いや運の尽きじゃなくて祝福の始まりですこれは。もうね、待ってましたとばかりにね、もうとにかくね次から次へと、なぜ聖書は真実なのかということを話をしてくれるんですが、その話、一番最初に聞いたのが今だに忘れることができない。それが今、お手元にある資料に書いてあるヨブ記なんです。このヨブ記っていうのは、今から3500年前、世界史で言うならば青銅器時代に書かれた古い書物。そのヨブ記の26章の7節1行目にこう書いてあるんです。
「神は北を、茫漠としたところに張り広げ、地を、何もないところに掛けられる。」
ここで言ってる神っていうのは、人が造った神々ではなく、人を、世界を、宇宙をお造りになった、この全天全地の第一原因者のことを神と呼んでいます。これが私の人生を大きく動かしました。この2行目、地って書いてますよね、地球という意味です。神様は地球を何もないところに掛けられるというふうに書いてあるんですよね。皆さんの玄関先には表札が掛かっているでしょう。なぜ表札が掛かってるんですか。フックがあるからです。フックがあるからそこに引っ掛けて、そして表札が掛かってるんですよね。
皆さん、地球上で一番重いものって何ですか?地球です。60兆トンですよ。この重い重い地球っていうのはいったいどこに掛かっているんだろうか。インド人はこう考えました。象の背中に乗っていると。象の足の地面どこやねんと。亀やって言うんですよ。ほお〜。亀の甲羅の裏側どこについとんねんと。蛇やって言うんですよ。バランス悪いん違うん?いや、とぐろ巻いた状態やと。蛇の下は何やねんと言わないんです。きりないから。大昔からこの地球というのは何にもない宇宙空間に浮かんでいるのだ。この60兆トンの重量のある惑星は浮いているのだということを、前もって語っているのはバイブルだけです。
しかも神は北を茫漠としたところに張り広げる。北を張り広げるというふうに書いてあるのですが、この張り広げるということばにはもう一つ意味がありましてね、傾けるという意味があるんです。
実は地球というのは地軸が23.4度傾いています。もし皆様のご自宅に地球儀があれば、地球儀全部傾いて、その角度は23.4度です。よっぽど安物でない限り。この若干23.4度傾いているので、赤道は暑すぎることなく、南極北極は生物が住める程度の寒さでおさまってるんです。地球というのは宇宙空間に浮いていて、しかも回転軸が北の方向に向かって少し傾いているのだということを、3500年前にすでに書いてある。
聖書は神によって書かれた
なぜそんなことを古代人が書くことができたのか。実はこれはヨブという人物を通して、この宇宙の設計者がことばを授けて書かしめたのだというのです。もし宇宙を設計し、地球をお造りになった方がいるなら、ご自分の造った作品に対して、正確なコメントを残すことができるはずです。
この聖書に書いてあることが荒唐無稽なことばかりであるならば「ああこれは確かな書物ではない。こんなものは信頼に値しない」ということになるんですが、聖書はどこを見てもどのページくってもね、科学が進歩すればするほど、聖書が前もって語っている事に科学の方が歩み寄っていくんですね。
この世界には作者がおられる。宇宙を造った方、自然界を造った方、そして、あなたを創造された魂の親がおられるのだ、あなたの第一原因者がおられるんだっていうんですよね。さあ、この作者は作品のことを心にかけておられて、作者であるからこそ語ることのできるさまざまなアドバイスや生きる勇気の湧くことばが散りばめられているのです。
私は、初めてその先輩からこの聖書の話を聞いた時にね、何かが崩れたんですね。何が崩れたか。偏見が崩れ出したんです。今までは「ああ、神様?宗教の話でしょう。そういうのは弱い人間がやったらいいんじゃないですか。私は用が足りてますから」という態度だったんですが、いや強いとか弱いとか関係ない真理の書物です。
ぜひ、皆様にこの聖書の中身を知っていただきたいと思います。心からお勧めいたします。
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2025年02月16日
降りて来られた神
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1283

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#1283
降りて来られた神
(尼川匡志)
ごきげんいかがですか。尼川匡志です。
さて、この番組のタイトルは「聖書と福音」です。良いタイトルだなあと思います。聖書の中心テーマはキリストです。福音の中心テーマもキリスト。つまり、この番組は皆さんにキリストを知っていただくために作られていると言えるんですね。
今日はこのキリストの生き方を考えてみたいんです。聖書を一箇所お読みします。
「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」
この箇所から三つのことを考えたいんです。一つ目「神のあり方を捨てて降りて来られた」ということ。二つ目「しもべになるために来られた」こと。三つ目「十字架につく選択をされた」こと。
神のあり方を捨てられた
それでは一つ目。神のあり方を捨てて降りて来られたということ。
なぜキリストは神のあり方を捨て、罪にあふれているこの世界に降りて来られたのでしょうか。それは、私たちにどうしても伝えたいメッセージがあったからなんです。
この世界は強い者が上に立ち、弱い者は虐げられます。誰も弱い立場になりたい者はいません。しかし病気や、貧困や、境遇や、家庭環境などがその人たちを弱い立場に追い込むんです。その人に責任があるわけではありません。社会の仕組みがそうなっているんですね。
神は、人が苦しみ嘆く人生を歩いて欲しいとは願っていません。一人一人が与えられた命を喜び、祝福された人生を生きて欲しいと願われているんですね。福音書でキリストが訪ねられた人たちは、全員苦しみ嘆く人たちでした。生まれつき目が見えず物乞いしかできなかった人。夫に先立たれ、大切な息子まで亡くし、絶望していた女性。長く病に臥せっていて、誰も私のことなんか助けてくれないと恨んでいた病人。悪霊につかれ、自分で自分を傷つけ、苦しみ叫んでいた男。お金で苦労し、金さえあれば幸せになれるんだと考えていた取税人。結婚することで幸せを掴めると思い込んで、失敗を繰り返したサマリヤの女。彼らは全員心が傷つき血を流していました。この世界はそんな彼らの心の叫びに無関心だったんです。
しかし、キリストはそうではありません。彼らの心の叫びを聞き、訪ねられたんですね。あなたの心は叫んでいませんか。この世界は世知辛いと諦めていないでしょうか。自分の心をごまかしていないですか。悲しいならキリストにその悲しみを伝えてみてください。そのためにキリストは降りて来てくださったんです。あなたの声に耳を傾け、大切なメッセージを届けてくださるはずです。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」「わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
キリストはあなたのすぐそばに立っています。心を開きさえすればキリストのメッセージがあなたに届くはずです。
しもべになられた
二つ目です。しもべになるために来られたということ。
しもべとは、仕える者のことです。キリストは仕えるためにこの世界に来られました。それは、あなたが神を信じることができるように仕えるということなんです。
サマリヤという所に一人の女性がいました。彼女は結婚することで幸せになれると考えていたんです。しかし思い通りにはなりませんでした。五回結婚し、別れ、今は同棲中。愚かに見えるかもしれませんが、彼女の心の叫びを聞こうとした人は一人もいませんでした。ある時、キリストが井戸の傍らで彼女を待っていたんです。「私に水をください」と声をかけ、会話の中で彼女が分かるようにご自分がキリストであることを示し、信仰に導かれました。彼女は結婚を繰り返しても満たされなかったんです。本当に求めていたのは心の空洞を埋めることだったからです。
同じことを私たちもやっています。お金があれば満たされる。健康があれば、能力があれば、地位や権力を持てば、もしもこうなればと求めては失敗をするんです。それは間違ってるんですね。私たちは今のままでも心が満たされ、幸せになれるんです。ただそのためには、あなたを創造した神に出会う必要があります。私たちは自力で神に出会えないんです。だからキリストがあなたに仕え、神に出会うためのきっかけを作り、導き、支えてくださるんですね。
サマリヤの女は神に出会いました。同じようにあなたが神に出会えるように、仕えるために降りて来てくださったのがキリストなんです。
十字架につく
三つ目です。十字架につくという選択です。
キリストは苦しむ人を訪ね、愛で満たされた方です。その方がどうして犯罪人がかけられる十字架につけられたのでしょうか。不思議です。
キリストは盲人の目を開け、寝たきりの人を立たせ、ツァラアトを癒やし、死人を生き返らせました。つまり十字架にかけようとする人間たちを、失明させ、病に臥させ、ツァラアトを発症させ、命を取ることだってできたはずです。
なぜそうせずに十字架につかれたのでしょうか。考えられることはただ一つです。自らの意志で十字架につかれたということです。キリストは十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言われました。つまりキリストをさばいたのは、ローマ法王でもユダヤの律法でもありません。父なる神なんです。なぜ神はキリストをさばく必要があったんでしょうか。
人間は神に罪を犯し、それによって神との間に隔ての幕をつくってしまいました。キリストは降りて来て、神のメッセージを伝え、神に出会えるように仕えてくださいます。しかし隔ての幕はそのままだったんです。
聖書にこうあります。「イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」神と人間とを隔てていた罪の幕が引き裂かれたんです。十字架が完成しました。
キリストが降りて来られた最大の理由は、私たちの罪を処分し、キリストを信じる者は誰もが罪赦され、神を信じる道をつくることだったんです。キリストはあなたのために神のあり方を捨て、降りて来てくださった。このキリストを信じてください。心からお勧めしたいと思います。
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2025年02月09日
罪人にある赦される喜び
《福音 みことば》
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#1282
罪人にある赦される喜び
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
先日、明治時代の物理学者寺田寅彦さんの特集記事を読みました。そこに彼の名言がいくつか紹介されていました。その中に、健康な人には病気になる心配があるが、病人には回復するという楽しみがあると書いてありました。
それを読んで私は思いました。罪人には赦されるという喜びがある。今日は、このキリストによる救いを紹介しているみことばをまず読んでみましょう。
「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
ここから、三つのポイントでお話しいたします。
天地万物の創造主
第一に、聖書の語る神は天地万物を造られた創造主であるということです。
ずいぶん前、私は韓国の珍島という島に行きました。珍しい島と書いて珍島っていうんですね。ここは、毎日一回とっても不思議な自然現象が起こるんです。なんと海が二つに割れて陸地と沖合にある島が一本の道でつながってしまうんです。まるで紅海を渡ったモーセたちのようです。道が海から姿を現すとみんな一斉にその道を通って島まで行くんですが、まあみんな興奮して大騒ぎなのです。
ところが、この現象を目の前にしながら、見向きもしない人たちがいるんですね。それは観光客を目当てに開業しているお土産屋さんたちなんです。彼らにしてみたら毎日見ている光景なので何の新鮮味も驚きもありません。
私はそれを見て思いました。どんなに素晴らしい光景も見慣れてしまったら何の不思議も感じなくなるんだな。私たちは朝起きるとたいてい空は青いですね。しかし、青空が十年に一回しか見られないとしたら、一回の青空にどんなに歓声を上げることでしょう。もし月が百年に一回しか見ることができず、星空が千年に一回しか現れないということであるなら、それに遭遇できた人たちはどんなに宇宙や自然界の不思議を畏敬の念を持って見ることでしょう。
すでに亡くなられた評論家の森本哲郎さんは、サハラ砂漠を旅して旅行記を書かれました。彼は見渡す限りの砂の大地と突き抜けるような空を見上げた時、魂の底から湧きおこるその思いを抑えきれずに絶叫してこう言うんですね。「どうして自分は人間なのか。なぜ地球があるのか。なぜ宇宙はこんな姿で存在しているのか」
いったい彼に何が起こったんでしょう。大自然の雄大なる姿を目の当たりにした時、何かに心打たれたんです。大自然のすごさに感動してそれをそのような姿にあらしめている何者かに叫んでいるのですが、その何者かが誰かが分からないというもどかしさが絶叫となっているんですね。その何者かをご紹介いたしましょう。創造主なる神なんです。私たち人間を生かす環境にこの宇宙を、この姿に設計した方です。この神様こそはあなたの魂の親なんです。
罪の報酬は死
第二に、罪の報酬は死ですということです。
そして罪とはいったいどういうことでしょうか。この偉大なる創造主から離れて生きることを罪っていうんですね。神から離れた生き方には三つのパターンがあります。
第一のパターンは神なんかないという考え。無神論の考えに立って生きることです。これは神に対しては恩知らずという意味で罪なんですね。そして人はこの神を見失った結果、人生に対する恐れをも失い、結果として人生をあるいはこの世の中を生きづらいものにしてしまったのではないでしょうか。
ところで、大阪府警は交番勤務の警官が制服姿でコンビニに入って買い物をすることを認めるようになりました。さぼりと誤解される恐れがあったので制服の上からジャンバーを羽織るように指導していたんです。それが制服のままで休憩時間に買い物することが認められるようになったのはなぜでしょう。犯罪抑止が期待できるからなんです。警官が店内に出入りしていると強盗たちもおいそれと手が出せなくなるんですね。自分たちを逮捕して裁く権威があることで恐れを感じ、この恐れが犯罪を抑え込むことになる。このように期待されているんです。逆に言うなら、なぜコンビニ強盗が頻発したんでしょう。恐れるべきものが目に入らないからです。恐れるべき方を持つ社会は安定します。
第二のパターンは神ならぬものを神とするという考えです。これを聖書は偶像崇拝と言います。これは神に対する背信行為という意味で罪なんです。なぜなら、聖書は唯一の本物の神以外の者を拝むことを罪として糾弾しているからです。
まあ日本人の我々にはずいぶん窮屈な狭い考えのように感じることでしょう。しかし、決してそうではないのです。私は先日友人の結婚式に招かれました。式のクライマックスは誓約です。新郎新婦に司式者が全く同じことを尋ねます。それは、生涯この人を自分の伴侶として貞操を誓いますかということです。夫に対して彼女だけを妻として愛しなさいと約束させることは堅苦しい考えでしょうか。妻に対して彼だけを夫として愛しなさいというその誓いを聞くのは窮屈なことでしょうか。決してそうではありません。互いに絶対的忠誠を求められるのは互いの関係が人格的関係であるからです。そして人格的関係の基礎は愛と誠実にあるんですね。あなたの造り主は人格ある神なのです。したがってあなたから愛と忠誠を求める神なのです。
第三のパターンは神ときちんと向きあわない態度です。C・S・ルイスという作家は、幼いころから虫歯に悩む人でした。少年時代彼は歯が痛むときには母親のところに行けばよいと知っていました。お母さんは痛み止めの薬を口の中に入れてくれたからです。しかし、ルイスはお母さんのところになかなか行こうとせず、ぎりぎりまで我慢していました。なぜでしょう。お母さんは次の日、歯医者まで引っ張っていくということが分かっていたからです。ルイスは当面の痛みを抑えてくれることは喜びましたが、根本的な治療は苦手で嫌だったのです。
多くの人は困った時だけ神に願います。テストの前、病気の時、大仕事の直前、神に力を求めるのです。そしてそれが終わってしまうとスーッと神を忘れていくのです。目の前の問題解決で済まそうとするんですね。しかし、人生の根本問題には手を付けようとしないのです。人生の根本問題とは死と死後のさばきから救われるということなのです。
救いに関する神の宣言と呼びかけ
第三のポイントは、この救いに関する神の宣言と呼びかけです。
神は救い主イエス・キリストの死と復活によってあなたのすべての罪の刑罰を終わらせてくださったのです。どうぞこの神の下さる賜物イエス・キリストをご自分の救い主として信じ受け入れてください。心からお勧めしたいと思ます。
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2025年02月02日
キリスト復活の合理性
《福音 みことば》
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#1280
キリスト復活の合理性
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
先日、私は『宇宙の人間原理』という本を読みました。ひとことで言うと、宇宙というのは、人間が誕生するように何者かによって絶妙に調整されているんだ、という考えなんです。
たとえば、太陽は毎秒毎秒、すさまじいエネルギーを放出していますね。この太陽のエネルギーを生み出しているのは重力です。太陽は自ら、重力によって自らの中心に向かって圧力をかけ、核融合反応を起こして、その結果として莫大な熱エネルギー、光エネルギーを放射しています。この太陽が捨てたエネルギーを使って、地球上の生命体は生きているんですね。
ところで、この宇宙には太陽のような莫大なエネルギーを外に捨てている星が何百億もあるんです。もし、この宇宙が閉じてしまっていて、大きさが変わらなかったなら、それらの星々が捨ててきたエネルギーがどんどん溜まって充満し、宇宙全体が何千℃にもなり、すべての物質は壊れてガス状になって落ち着く以外にはないのです。ところが、実際にはそういうふうにならないのは、宇宙が膨張していて、エネルギーが捨てられる場所を作り出しているからなんです。
このエネルギーを生み出す重力と、その捨て場所を作り出している宇宙の膨張率が絶妙なバランスで保たれているので、私たちは生きることができているって言うんですね。宇宙は人が生きるために何者かによって調整されているように見えて仕方がない、というのがこの本の主旨でした。
さて、聖書は、この全宇宙を秩序あるものにお造りになった方を紹介しています。それは、神です。この宇宙の第一原因者なる方を、聖書は「神」とか、「創造主」と呼んでいるのです。そして、神は、宇宙の中では砂粒のように小さな地球に住む、また小さなちいさな私たち一人ひとりを深くふかく愛しておられる、と語るのです。今日は、この神が私たちを愛して与えてくださったキリストのみわざを考えてみましょう。
聖書に、このように書いてあります。
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
さて、ここから三つのポイントで考えたいと思います。
キリストは人として世に来た神の子
第一に、キリストは人としてこの世に来られた神の御子であるということです。
天皇陛下と美智子皇后が東日本大震災のセレモニー行事にご出席なさったときのことです。普段はお洋服でご出席なさることの多かった美智子皇后が着物を希望された、という記事がありました。理由は、術後の天皇陛下が万一倒れられるようなことがあった際に、すかさずお支えするためだというのです。洋服だとハイヒールを履くことになりますので、それでは支えきれないかもしれません。
しかし、和服であるなら草履ですね。もしものとき、踏ん張ることができる。そうお考えになられて着物を強く望まれた、とあったのです。ご自身のファッションよりも、一番大切な方をお支えするための装いを選ばれたというのです。
神のひとり子はなぜ神のあり方を捨てて、人間の体という装いを身にまとってこの世に来られたのでしょう。罪人を支え、励まし、救うためです。自ら人となることで、人の弱さを実感し、人であるあなたをしっかりととらえ、支え、守るために、この方は肉体をもってこの世に来てくださったのです。
キリストは十字架で死ぬためにこの世に来られた
第二に、キリストは十字架の死を引き受けるためにこの世に来られたということです。
人間にとって死は、避けることができないものですね。しかし、罪なきキリストにとって、死は、そもそも無関係のものです。キリストは、死なない方です。死の原因である罪が無い神の子であるからです。そのキリストが、十字架にかかってくださいました。それは、人間のすべての罪を引き受け、人の身代わりとして神様のさばきを受けるためであったと聖書は語るのです。
神はキリストを復活させられた
第三に、神はこのキリストを死からよみがえらせ、高く上げ、救い主であることを明らかにされたのです。
一度は私たちの罪を負って死んでくださったキリストが、死後三日目に死を突き破って復活してくださったのです。私たちの経験則では、死んだ人間が二度と死なない体で復活して天に昇った、などということはありえないことですね。いや、復活に限らず、キリストがなさったという数々の奇跡もありえないことだと論じる人々が特にこの日本の中では一般的だと思います。
しかし、オックスフォード大学の数学者であり、またクリスチャンでもあるジョン・レノックスという人は、次のように語っています。「奇跡は、閉鎖系のシステムの外側から膨大なエネルギーをつぎ込んだために起きる事象である」わかりやすく説明すると、こういうことです。
ある夜、オフィスの引き出しに一万円を入れたとします。次の夜も同じように一万円を入れます。これで合計二万円ですね。ところが、三日目に引き出しを開けてみると、五千円しか入っていないではありませんか。さて、こういうことが起こったとき、普通の人は数学の法則が破られた、とは考えません。これは、誰かが一万五千円を抜いていっただけのことなんですね。
数学の法則や自然法則には、人間の行為を止める力は無いのです。そこで、レノックス教授は次のように推定するんです。「復活を始めとするキリストの奇跡は、自然法則に反したものではない。復活は、神が歴史という引き出しの中に手を入れ、死という一万五千円を取り去った結果、起こったのである。自然界が、外部からの進入を許さない閉鎖系であることを証明しない限り、誰も、キリストの復活の可能性を否定することはできない」
私たちの住んでいるこの地上の世界においても、独裁国家では、独裁者はその国の法律に縛られずに、自由に行動していますね。自然法則を造られた神は、自然法則を尊重なさいますが、自らは自然法則に縛られてはおられないのです。神は、自然法則を超えて、ひとり子の神を人間の姿にし、いのちの君に死を経験させ、そして三日目によみがえらせてくださったのです。
どうぞ、このイエス・キリストをご自分の救い主として受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。
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2025年01月26日
苦難さえも喜ぶ人生
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1279

↓ YouTube より↓
#1279
苦難さえも喜ぶ人生
(三綿直人)
ごきげんいかがですか。三綿直人です。
さて今年の4月28日、クリスチャンで詩画作家の星野富弘さんが78歳で亡くなられました。私のパパ友がその葬儀に参列したんですが、一般の葬儀と全く違い、感謝と喜びに溢れていて、真実の希望について深く考えさせられたとレポートしてくれました。では、星野富弘さんの人生は、悲しみや苦難と関係のない人生だったのでしょうか。いいえ、苦難と絶望の中で喜びを見出した人生だったんです。
星野さんは群馬大学教育学部を卒業、念願だった中学校の体育教師になります。しかし新卒一年目24歳の時、飛び込み前転からの前方宙返りの模範演技中に、事故で首から下が動かなくなってしまいました。マットのまま救急車に運ばれ、ベッドから天井を見上げる日々、ずう~っと絶望だったそうです。舌をかみ切ったら死ぬかもしれない、と考えたり、母親に首を絞めてもらおうか、とも考えますが、母親を殺人犯にするわけにもいかず、など当時の絶望状況を本の中で語っておられます。
そんな星野さんが、どうして感謝と喜びにあふれる人生になったのでしょう。普通、苦難がない人生が感謝と喜びの人生だと考えます。将来の苦難を避けるために、いろいろ準備をします。安産祈願、安全祈願に行きます。勉強をし、富を蓄え、人間関係を構築するのは、苦難が来ても解決できるようにではないでしょうか。しかし、星野さんは苦難さえも喜ぶ人生を歩みました。本当にそのような人生があるのでしょうか。
今日は「苦難さえも喜ぶ人生」とタイトルをつけて、三つのポイントで考えてみましょう。
良いことばを聞く
まず一つ目のポイントは「良いことばを聞く」ということです。
ところで私たち人間の体に、最も大きな影響を与えるのは何でしょう。そうです、食事ですね。栄養バランスのとれた食事が、しっかりとした体を作ります。悪いものを食べてもすぐに体が悪くなることはないかもしれませんが、長い目で見ると食事が私たちの体に最も大きな影響を与えるんです。
では、私たち人間の心に、最も大きな影響を与えるのは何でしょう。そうです、ことばなんです。ことばで心は育まれるんですね。どんなことばを聞いているかで心の健康は左右されるんです。しかも食事と違って、友達や親に言われたひとことが、人生を左右するほど、心に大きな傷をつけることだってあるんです。私たちの住む社会は、どんなことばが飛び交っているでしょう。誹謗中傷、陰口、人を陥れることばが多いのではありませんか。心の元気を奪うことばが溢れているんではないでしょうか。
星野さんはベッドに横たわりながら、書見機で聖書を読み始めました。群馬大学の2年先輩のクリスチャンに勧められたからです。最初は全然分からなかったということですが、一つのことばに目が留まりました。それは聖書のこのことばでした。
「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」
衝撃だったそうです。苦難さえ喜ぶ?でもこの苦難が希望につながっているというのが本当なら、それはうれしいなぁと思ったそうです。聖書のことばに出会ってから、彼の人生は少しずつ変化し始めます。体は動きませんが、心が変えられていくんです。聖書のことばは、良いことばです。あなたの作者である神が、あなたに語りかけている愛のことばです。この聖書のことばが、失望に終わらない希望、苦難さえ喜ぶことができる人生の出発点なのです。続けてどうぞ良いことば、聖書のことばを聞いて欲しいと思います。これが一つ目のポイントです。
自分の心の醜さに向き合う
二つ目のポイントです。「自分の心の醜さに向き合う」ということです。
私たちはなかなか自分というものが分かりませんね。鏡を見れば自分の体の様子は分かるかも知れませんが、自分の心はどうでしょう。聖書は私たち人間の心の鏡です。そして聖書は私たち人間の罪、その醜さについて真っ直ぐ語ります。「義人はいない、一人もいない」と。星野さんも聖書を読むにつれ、自分の心の醜さに目が開かれたと言います。
ある時病院に、スキー大会で転倒し、星野さんと同様に四肢が全く麻痺してしまった中学生がやってきます。しかし彼は治療がうまくいき、腕も足も動くようになり、自分で排泄をし、食事ができるようになるんです。それまで星野さんは、自分と同じ不自由な状態にあった中学生を励ましていたんですが、実際にその中学生が動けるようになると、強い嫉妬心が芽生えたそうです。
星野さんはこのときの経験を次のように詩で表現しています。「体のどこかが、人の不幸を笑っている。人の幸せがにがにがしく、『あいつも俺みたいに動けなくなればいい』と思ったりする。体の不自由から生じたひがみだろうか。心の隅にあった醜いものが、しだいにふくらんできたような気がする。自分が正しくもないのに、人を許せない苦しみは、手足の動かない苦しみを、はるかに上回ってしまった。」
星野さんは自分の罪、心の醜さに向き合いました。私たちはどうでしょうか。自分を正当化し、自分が悪いならみんな悪いと考えていないでしょうか。人の醜さを指摘して、自分の醜さから目をそらしてはいないでしょうか。手足が動かない苦しみよりも、人を許せない苦しみが上回ったと言う星野さんは、心の醜さに向き合いました。逃げませんでした。ゆえに自分でどうすることもできない罪から解放してくださる方、イエス・キリストを求めるようになるんです。
神の愛を知る
三つめのポイントです。「神の愛を知る」ということです。
苦難さえも喜ぶことができるのは、神の愛が注がれているからだと聖書は語っています。自分の心の醜さに向き合うと、自分でも自分が嫌になることがあります。そして、こんな自分を愛する人はいないと思うようになります。なので、自分を隠し、仮面をかぶり、自分を演じて人付き合いをするようになります。しかし聖書は語るのです。あなたの心がいかに醜くとも、わたしはそのあなたを愛していると。愛されるために醜さを隠す必要はないと。
だれも愛してくれないと思っているあなたに、聖書は語るのです。あなたの罪、あなたの過ち、あなたの醜さを知ってなお、止めることのできない絶大な愛で、あなたを愛している方がおられると。その方が、イエス・キリストです。キリストはあなたを愛し、命を懸けて、罪の負債をすべて支払ってくださいました。そして、あなたの心に愛を注いでおられるんです。私たちの社会は、あなたの能力、やる気を評価します。しかし、神の愛は違います。あなたの存在を喜ぶのです。
星野さんは、人の世話にならなければ生きていけないのです。しかし、キリストを信じた星野さんを、同じくキリストを信じた人々が支え、生きていったのです。星野さんは口に筆をくわえ、詩と絵を描くようになります。苦しみから生まれた希望で、多くの人々が慰められ、真の喜びと希望と感謝が溢れているんです。是非、苦難さえも喜ぶことのできる人生、失望に終わらない希望をもつ人生に入ってください。心からお勧めします。
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2025年01月19日
ゴスペルの真髄4 神のひとり子があなたへのプレゼント
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1278

↓ YouTube より↓
#1278
ゴスペルの真髄4
ー神のひとり子があなたへのプレゼント
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
みなさん、あらためまして、こんにちは
私は今日、ゴスペルの神髄をお伝えしたいと思います。
実はね、私は大阪のほうで、毎月一回シェラトンホテルというところでね、聖書の講演をしてるんです。いろんな方、来るんですよ。もうね、あの、ヒンズー教の人も来るしね、お坊さんも来るしね、刑事も来るし、ヤクザも来るんですよ。いろんな方がお越しになってね、私もそれをね、前の方からにこにこしながら、化学反応が起きるかな思いながらですね見てるんですが。
ある時ね、講演が終わってその後で食事するんですけど、一人の方がやって来られました。非常に精悍な顔つきの方でね「高原さん、いつもYouTubeみてます」って言って握手したんです。その時ね、なんかこう、握手してない左手の方の手、なんか見てしまったんですよね。小指無かったんですよ。ほんで、握手しながらずっとそれ見てる。「私、Fと言います。あ、高原さん、小指のこと気になってらっしゃるんですね。実は右側もありません」ピュッと取ってね、え、小指取れるん…僕のおじいちゃん、入れ歯取れたけど、指取れるの初めてやてね。
話聞いてみましたらね、日本最大の広域暴力団あるじゃないですか、Y組。固有名詞は言ってません。Y組の元組員だったんです。今ね、クリスチャンとしてね、夜の街に出かけて行っては、キリストを伝えている人なんですよ。
私それ聞いた時に、非常に彼に興味を抱いて「どうやってキリストと出会ったんですか」実は彼はね、ヤクザ稼業してた時にね、ヤミ金という不正な金融の仕事をしてたっていうんです。ヤミ金って、十一と言いましてね。十日で一割の利子がつくという。百万円借りたら、百十万円にして返さないとだめです。無茶苦茶な金利です。
そんなところに借りに来る人というのは、本当に追い詰められている人ばかりなんです。すでに他の金融機関から借りたくても借りれないような人たちがやってくるのでそこへ来たが最後、もう這い上がれない地獄に落ちるようなもんですよ。まあ、金を貸しますよ、そして取り立てです。その取り立てのためにはもう情けも涙もない。
ある父子家庭の親子
ある時、一人の人物のところに取り立てに行ったそうです。その人はね、父子家庭です。勤めていた会社が倒産して、そして金回りが悪くなって奥さんと夫婦喧嘩が絶えなくなり、奥さんが子どもも置いて家出して行ったそうです。今、お父さんと小学三年生の男の子と二人で暮らしているんですけど、何をやってもうまくいかないということで、すっかりお父さんが腐ってるんですね。そして、とうとうヤミ金に手を出して深夜に襲撃するそうです。
近所迷惑になるということをわかったうえで、わざと大声で
「ボランティアで貸しているんじゃない。詫びはいいから、金を返せ」
「すいません、もうちょっと待ってください」
「すいませんとお詫びいらない、金返せ、金をいますぐ出せ」
玄関先で土下座しますよ、大の大人が。
床の上に正座してね、そして土下座して
「ごめんなさい。赦してください。もう少し待ってください」
「待てない!」
ということで詰めて行った時にね。家の奥から小学校三年生の男の子がバーっと走り出して来てね、お父さんにしがみついたそうです。
そしてお父さんをギューっと抱きしめながら、首だけこちらにひねって、睨みつけてくるそうです。この睨みつけてくるね目がね、涙ぐんでる。目をそらさないっていうんですよ。プロのヤクザの人とね、睨みやいやったらほんとに怖いですよ。今までね、そういうふうに反抗的な態度をとる人がいてたら、いくらでも脅し文句が出てくるんですけど。ところがこの子どもが睨みつけてくるその目見たときに、言葉が出てこない。
ようやくのことでその少年から目をそらして「ちょっと電話かけてくる」と言って車に戻って、タバコ一服吸った時に思わず口から「この仕事は嫌だ。俺、何やってるんだ。俺はこんな仕事したくない」って。そしてもう一度ね、先ほどの親子のところに行ったそうです。
そして「さっきは大声を出して悪かった。お父さん実は悪くないんだ。お父さんに無理なことを押し付けてるこの私が本当は一番悪いんだよ」と言って、このお父さんにね「金利込みで15万円の借金、俺が帳消しにするから、もういい」そして「これ俺からの餞別だ」と言って30万渡したそうです。自分の借金の2倍の額を渡してね。「二度と借金するな。これを次の就職のための支度金にしろ。あんたがほんとにちゃんと働いているかどうか、時々見回りに来るから」って言って、そして「いい息子持ってよかったな」って言ってね、別れたそうですが。
愛する者のために命を投げ出す
その後でね、彼は聖書読んでね、教会に行く前に、小指落としてね、お金積んで組長のところに持って行ったら、組長はお金だけ取って、小指突き返してくれたそうです。その小指持って教会に行ったら、教会の庭に埋めましょう、言うて埋めてね、指だけの召天記念式やってくれたという。
私ね、それ聞きながらね、そんな人いてたんか、思て、訊いたんですね。「ところで借金帳消しにして、自分のポケットマネーから30万円も出す。なんでそんなことしたんですか。しかも借金してる人に向かって、悪いのは俺なんだってなんでそんなこと言ったんですか」と言った時に、彼が言ったのはね「清いものに触れた時、自分が汚れているということがわかった」って言うんですよ。
今、自分の目の前にいてる小学三年生の男の子ね、この借金取りのFさんにとってみたらどうしようもない男に見えるかもわからないけれど僕にとったらたった一人のお父さんです。このお父さんを苦しめるんだったら、お父さんと僕は一体だから、僕はお父さんと一緒に滅んでもいいと思っているというね、目が座ってるんだけどこれね覚悟している人間のまなざしだったって言うんです。
駆け引きじゃない。覚悟してる。自分は非力だけど、からだ張って、父さん守るんだというその純粋な心というか、そういう清らかなものを見た時に自分はほとほと汚れているなと思った。今まで自分は罪人だとわからなかったのは、自分のまわりにいてるのは、汚れた連中ばっかりだったって言うんです。だけど、愛する者のために自分の命投げ出すような覚悟でね、からだ張ってかばってる人見ていた時にねこんな息子がいてたらどんなにいいだろうかってしかし後に聖書読んでわかったんです。こんな神の息子が私に与えられた。
実はみなさん、ゴスペルの真髄を書いてある聖書の箇所があるんですね。
「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
イエス・キリストは人となられた神です。全く罪のない方。この方は何のためにこの世界に来てくださったでしょう。私たちの罪を背負って、十字架にかかって、身代わりに刑罰を受けるためです。私たちの罪を完全に帳消しにして、祝福だけを残すために、十字架にかかって死に、墓に葬られ、三日目によみがえった方、この方がイエス・キリストです。
このイエス・キリストを信じる者は、たとえ死んでも、永遠のいのち、天国に行きます。過去にどんなに醜い罪があっても、全部洗い流された。キリストの血潮によって、すべての罪が洗い流されるというんですね。ではいったい、どうしたらいいでしょう。神のくださる賜物、賜物っていうのはプレゼントですよね。プレゼントていうのはね、受け取らないと自分のものにならないんです。受け取るためには、ただキリストを自分の救い主として信じるということだけでよいのです。ぜひこのキリストを信じてください。心からお勧め致します。
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2025年01月12日
ゴスペルの真髄3 プレゼントは受け取る側の決心ひとつ
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1277

↓ YouTube より↓
#1277
ゴスペルの真髄3
ープレゼントは受け取る側の決心ひとつ
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
皆さん、改めまして、こんにちは。私は、今日、ゴスペルの真髄をお伝えしたいと思います。
ところで、日本を代表するクリスチャン作家に三浦綾子さんという方がいらっしゃいました。まぁこの方ね、戦後間もなく結核という病気になるんです。今ではね、特効薬がありますけど、その頃、結核に特効薬がなかなか無くて、そして、最終的に脊椎カリエスと言いましてね、結核菌が脊椎の中に入っちゃうんですよ。そうなりますともうね激痛。そして、コルセットの中に入って、朝から晩まで寝たきり状態です。もう何か固められたような状態で、じーっと、もうずっと寝たきり状態が何年も何年も何年も続く。そして、当時としては不治の病だというふうに言われたんです。
そして、ここに治らない病気の人がいるということが噂になると、いろんな所から新興宗教の人たちが入れ替わり立ち替わり現れたそうです。そして、みんな言うことはね似てる。「このお守り買ったら病気治るから」「この物を拝んだら健康になる」とかね、「ここ行ってお祓い受けたら、あなたは元に戻ることができる」とかね。全部お金払わないとダメなんですよ。少なくない金額なんですよね。で金かと。
死の正体
彼女はね、実はね、病気が治るか治らないかということ以上に、どうしても知りたいと思ってたことがあったそうです。それはね、人はなぜ死ぬのか。死んだらどうなるのか。死とは一体何なのか。死というものの本質は一体何なのか。死の正体を私は知りたい。
それでね、「病気治ってもね、死にますよね。だったら自分が一番聞きたいと思ってることを聞けないんだったら、別に拝みたいと思わないし、治りたいと思わないから、結構です」っていうことでね断ってたんですが、ある時、一人の方からプレゼントされた聖書を読むんです。この聖書の中に、「罪の報酬は死です。」と書いてあった。今まで読書家であった彼女はいろんな哲学書を読んだり、いろんな医学書を読んだり、さまざまな倫理の本を読んだり、宗教の本を読んだりしましたけど、人はなぜ死ぬのかという原因を明確に語っているのはこれだけだ、バイブルだけだって言うんです。
罪の報酬は死です。いのちの源である神から切れた結果、人は死ぬものとなった。その時に死というものの正体がなんとなく見えてきたって言うんですね。
まぁ彼女はこう言ってるんですね。「親切のご褒美は死である。だったら、きっと死にはいいものがあるんじゃないだろうか。立派な人生のご褒美は死である。その場合、立派な人生に見合うだけのものが死の中に入ってるだろうと予期できる。英雄的な行為のご褒美は死である。きっと、死というのは栄光に輝いたものではないだろうかというふうに予測できる。でも、罪の報酬が死であるということは、この死というのは呪わしいものに違いない。一体死って何だろう」
皆さん、死というのは、ギリシャ語では『サナトス』というんですけど、分離という意味なんです。肉体と魂が分離することが死です。そして、人間は二回死にます。一回目は肉体が死ぬんですが、二回目は魂から離れた、いや体から離れた魂が、永久に神から離れた世界に落ちること。これを聖書は地獄とかさばきとか言ってるんですが。
神は罪人を愛している
まぁ彼女はそれを聞いた時にね、「自業自得だから仕方ないわ」とすぐにね 諦めの境地というか、まあ実は二重婚約してたんですよね。二人の男性と婚約してたっていうんですよ。何でそんなことをしたのかと言いますとね、戦争終わった時に何もかも自暴自棄になってしまってね、投げやりな気持ちでいたのでプロポーズされたら「はい」「はい」「はい」「はい」言ってるうちに二人の人と婚約してたってね。こんな不真面目な私が素晴らしい世界に行けるはずがない。私は呪われて当然なことをやったんだから呪われていくのは運命に従うことで仕方がないというふうに、自分を諦めていたんですが、聖書を読むと、どんなに自分が自分を諦めても、私のことを諦めない方がいるというふうに書いてあるんです。神です。
皆さん、あなたをお造りになった方は、あなたの魂の親です。親が子どものことを愛し、子どもに夢を託し、もし、子どもが病気になったら回復を願うように、人が罪に落ちて、永久の滅びに向かっていくということを考えたとき、神はもうたまらなかったんですね。
実は、愛というのはね、愛の対象と一体化するという性質があるんです。あなたが愛している人の人生の目標があなたの人生の目標になりませんか?あなたが愛している人の夢が実現する時、それはあなた自身の夢が実現しているように感じませんか?そして、あなたが愛してる人が幸せになることが、あなたにとって幸せを感じることになっていませんか?あなたが愛してる人が不幸になっていくと、自分自身も不幸になっていったような心境になるんじゃないですか?
愛というのは相手と一体化することです。神は罪人を愛してる。だから、罪人が永久の滅びに行くということが分かった時に、まるで自分自身のことのように痛みに感じ、そして、解決を示してくださったんです。救い主イエス・キリストという方を送ってくださった。
「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
というんですね。
プレゼントは受け取る側の決心ひとつ
ところで、バチカンに行きましたらね、システィーナ礼拝堂というのがあってね、そこの天井画に創世記を題材にして九つの絵が描いてある。ミケランジェロが描いたんですよね。
その中で一番有名な絵は『アダムの創造』という絵なんです。右の方には天から神が手を差し伸ばしている。まっすぐに「さあアダム、掴まりなさい」と言わんばかりに。そして、地ではアダムが上半身を起こしながら左手をこう差し出してるんですけど、握手できないんですよね。指と指がもうあと一センチぐらい離れてる。つながろうと神がしてる。そして、アダムも手を伸ばしてる。だけどつながれない。何でつながれないかと言いますとね、よくよく見るとアダムの手首と指が曲がってるんですよ。つまりね、創造主の方ではできる限りのこと全部やったけど、あと人間が曲げてるからつながらない。ピュッとやったらつながるんです。つまりプレゼントは受け取る側の決心一つにかかってるっていうんです。
もし皆さんが、私の人生には罪を赦す主権者が必要である。永遠のいのちを与える与え主が必要である。天国に入れてくださる天の国の王が必要であると思われたら、イエスこそ、その方です。
是非、このイエス・キリストを信じてください。救われます。この方は、嘘偽りのない方です。何でもできる方だけど、一つできないことがあります。嘘つくことできないです。言われた通りの方。是非、このキリストを信じてください。心からお勧め致します。
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2025年01月05日
ゴスペルの真髄2 すべての人は創造主に対して罪人
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1276

↓ YouTube より↓
#1276
ゴスペルの真髄2
ーすべての人は創造主に対して罪人
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
皆さん、改めましてこんにちは。
私は、今日ゴスペルの真髄をお伝えしたいと思います。すべての人は創造主である神に対して罪人であるということなんです。
まあ実はね皆さん、神が最高傑作として人間をお造りになった。神の愛の対象として人をお造りになったというふうに聞くとね、ちょっと解せないことがある。そんなにも神は人間を尊いものとして造ったんだったら、どうして人間ってこんなに出来悪いんですか。自己中心で、わがままで、プライドばっかり高くて、自分のプラスになるんだったら、相手がマイナスになっても平気であるとか。人がいる所にはいつも問題があるじゃないですか。
「一人でいたら孤独感。二人でいたら劣等感。三人そろって疎外感」って言いましてね。もうね人間って一人でいても寂しい、二人でいたら比べるから優劣がついて劣等感だし、三人以上なっていったら、なんか集団の中からはみ出して。いや人間関係って難しい。何でこんなに人間は隣人と仲良くすることができないのか。どうして自我を押し通してしまうんだろう…罪が入ったからだと聖書は語るんです。
「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」と言ってるんです。
作家・山本周五郎の少年時代
実は私が大好きな作家が何人かいるんですが、そのうちの一人はね山本周五郎という人なんです。最近の若い方はあんまりお読みにならないと思います。だけどねいい作品書くんですよ。
この山本周五郎の作品の登場人物って皆ね辛酸をなめた人たちなんです。辛酸なめて苦労して、そして最後志半ばで倒れていくというね、そういう人が多い。なのに暗くないのよ。いや志半ばで到達できなかったら悔しいんじゃない?全然悔しがってない。と言うかね、何かもっと次元の高いことに準じて、成らなかったらそれはそれでいいんだという、何かね人生のこの知恵の中で、人間関係を超えた何かを指差してるように思わせる作品が多いんですが、彼ね小学校卒業です、学歴。小学校出てからね、東京の銀座にある質屋さんに丁稚奉公に行くんです。その質屋さんのお店の名前が「山本周五郎商店」なんですよ。つまりね自分が丁稚奉公した店の屋号をペンネームにしたというね。
まぁそういう人物なんですけど、僕は彼のことが大好きでね、彼のこと色々と調べてたら、少年時代の思い出について語ってるエッセイ見つけたんです。彼が小学校四年生の時に、国語の宿題で作文が出たんですね。それぞれ自分の思ってること書いたらいいからいうことでね。
そしてね、実は彼のクラスにね、非常に出来の良い少年が一人いました。A君といいます。まああんまり言いたくはないけど、皆さん、スクールカーストっていう言葉ご存じですかね。学校の中でね、1軍と2軍と3軍みたいに分かれてる。1軍に属してる子どもたちっていうのはね、格好良くって、人気者で、モテモテで、勉強ができて、スポーツもできて、ギターなんか弾けたりする。僕も弾くんですけど。
この1軍というのと、それから、そこまでいかないけれどもその他大勢と、そして底辺みたいな3軍があるみたいなね。なんか地味というか、あんまり友達もいてなくて、地味な感じで。
山本少年は3軍だったそうです。A君は1軍なんですよ。ところが何の拍子か、ある時A君と山本君が意気投合して遊んだことがあってね。山本少年はですね、そのことが嬉しくて作文に書くならこれしかないだろうということでね、彼と遊んだあの事この事なんかを作文に書いたら、それが非常に出来栄えが良かったということで、教室に張り出された。その張り出された作文をA君が読んだ時にね「俺、山本と遊んだことなんかないぞー」と言い出したのです。
「何で俺が山本と遊ばなあかんのや」と。「この作文は嘘だ」って言ったんです。そうしたら他のクラスのメンバーもね「そうだ、こんな事あるはずないじゃないか。うっそだ!うっそだ!うっそだ!」って言って。そして、少年山本君をみんなで詰め寄っていってね「お前どうしてそんな嘘ついたんだ!」ってことで、まぁどんどんどんどん詰められていった時に「嘘じゃない」だけど頭の中が真っ白になって、どういうふうに言い返していいかよく分かんない。もうどうにも分かんないとなってた時に、担任の先生がね駆けつけてきたんですよ。
そして、その作文をもう一度目を通して、一言こう言ったんですね。「山本、嘘でもこんなにすごく書けるってお前才能あるから、将来小説家になれ」って。まぁね先生はね、励ましたつもりなんですけどね、彼は傷ついたね。とうとう、A君と楽しく遊ぶことができた。それは彼の中で美しい思い出だったんですが、こんなに慕ってるのにみんなに嘘つき呼ばわりされて、先生までもが私の証言よりもA君や他の子どもたちの言うことを聞いて。
創造主から離れることを罪という
私そのエッセイ読んだ時にね、このAちゅう奴ね、けしからん奴ちゃなあと、おい、なんちゅう残酷なことをしたるんやと、こんな慕ってくれてる人をね、公衆の面前で辱めて、もう血も涙もないんかこいつはと思って、なんかイライラっとしたんですが、後年クリスチャンになってね、私も同じことをしていたなということに気がついたのです。
誰に対してそれをしたかと言ったら、神に対してです。私も長い間「神!目に見えないから頼りにならん。神!神に頼るよりも自分が強くなって、自分の実力で切り拓いていく方が英雄的な人生じゃないのか」とか、「神がいても私の人生とは関係ない、関係ない」ということでね。「神は付き合ったことはない。神からいいものもらったことない。関係ない!」っていうふうに、この慕っている少年を一方的に断罪したのと同じように。
実は、創造主なる方は私たちを熱烈に愛してくださってるんですが「いや、私いりませんので結構です」っていうふうに断るのは、あの少年Aのやったこととよく似てるように思うのです。
聖書はね、創造主から離れることを罪と言っています。ちょうど植物は根っこからスパンと切ると、生け花としていけると、一週間二週間は青々と茂ってるでしょう。花も綺麗でしょう。でも根っこから切れてるからやがて枯れるんです。私たちは神から離れてても100歳、120歳ぐらいまでは生きれるかもしれません。しかし、いのちのルーツと切れている。神から離れている。だから人は死ぬものとなったとバイブルは語るんですね。人は神とつながる必要があるんです。
創造主の方ではできる限りのこと全部やったけど、罪だらけの人間が創造主に受け入れられるためには、その罪を処分していただく必要があるんですね。その罪の完全処分をキリストはあなたに代わって成し遂げてくださいました。あなたの代わりに十字架にかかり、罪の償いをしてくださったのです。ぜひこのキリストを信じてください。心からお勧めいたします。
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2024年12月18日
ゴスペルの真髄1ー神はプレゼントされる方
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1275

↓ YouTube より↓
#1275
ゴスペルの真髄1
ー神はプレゼントされる方
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
皆さん、改めましてこんにちは。
いやー、やっぱり、音楽ってライブですよ。特に一曲目が、Every Praiseって曲じゃないですか。今から10年前にね、アメリカのアトランタで誘拐事件が起こったんです。当時9歳の黒人の少年ウイリー君っていうのが、家の前に止まったピックアップトラックでさらわれてね、そして行方不明になってしまったんですが、まぁさらわれた後でね、車内で連れ回されながら、3時間ぶっ通しでEvery Praise歌ったって言われてるんです。
この曲の内容はね、「神様見てる。神様見守ってる。神様いらしてくださる。神様は悪い奴から助けてくれる」というね、それ3時間ぶっ通しで歌ってね、犯人がしまいに、あんまり「神が見てる。神が見てるって」、「やかましい!黙れ」って言うんですけど、黙んない…。とうとうやりきれなくなってね、そしてね「おまえ、もう降りろ」言うてね、そしてね「今日あったことは、だれにも言うなよ」って言ったことを、みんなに言いふらしたんです。
で、その言いふらしたのが、地元のテレビ局のところにまで来ましてね、とうとうこの曲を作詞作曲したHezekiah Walkerという人が彼に会いに行って、一緒に合唱しているというYou Tubeが上がってるんですよね。つまりね、皆さんにもお子さんやお孫さんがいて、誘拐されたらどうしようって心配じゃないですか。「ゴスペル教室」ですよ。
神のいいニュース、ゴスペル
先ほど、このクワイヤーの発足のいきさつを聞いて、たいへん感銘を受けました。実は自分の教会の目と鼻の先に、女子高があるんです。そこの女子高の卒業生の一人がジャズ・シンガーになったんですね。綾戸 智恵っていう人です。私よりも一つ年上なんですけど、まぁー大阪のおばちゃんですよ。で、この人が福島に来ました。多くのアーティストがね、自分の持ってる音楽のスキル活かして、何とか、東日本大震災のただ中にいらっしゃるような方々にエールを送りたいと思って、チャリティー・コンサートなさったんです。
だけど、まだ復興の大変なときだからどれくらい来てくださるだろうかと思ったら、まぁ超大入り満員、立ち見ですよ。思わずね、「皆さん、家を建て直さなければならないときに、こんなとこ来てていいんですか」って訊いたら、客席から「家を建て直す前に、心を立て直したい。だから心が勇気で満たされるような歌、歌ってくれ」と言って、彼女が選んだのはゴスペルですよ。
ゴスペルっていうのはね、「いい知らせ、God Spell,神が綴った救いのメッセージ」、これがゴスペルなんですね。神のいいニュース、これがゴスペルなんです。
実はね、私、先週ね、いいニュース一個もらったんですよ。麹町っていう所に行くことになりましてね、ところが東京の地下鉄ってややこしいじゃないですか。私座りながら路線図見ながらね、乗換駅間違えないようにって、ず~っと見てたら突然、40代ぐらいの女性がね、私の前にバーンって立ちはだかるんですよね。ほんで私にね、こうメモ渡してくれたんです。
「あれ、ファンかな?」なんてですね…んなわけないやろと、ほんでこれなんやって開けてみたらね、「チャック開いてるかもしれません」って書いてあったんです。「え~っ」て見たらね、開いてるかもしれませんってな程度じゃないんですよ。全開状態ですよ。フルオープンや。いや、でもこれね、私にとってね、いいニュースだったんです。というのはね、麹町である国の大使と会うことになってたんですよね。大使の前でカッコつかんじゃないですか。まぁ、その意味ではね、「ああよかった」っていうふうに思ったんですが、でもバイブルのこの「いいニュース」って、本当に「いいニュース」なんです。
このバイブルの良いニュースを、ひとことばで要約している聖書の箇所があるんですね。「罪の報酬は死です。しかし神の(くださる)賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」私は今日、ここから、皆さまにゴスペルの神髄をお伝えしたいと思います。
まず第一番目のポイントは、「神のくださる賜物は」と書いてあるように、神とは、私たちが生きていくのになくてはならない多くの賜物を、プレゼントしてくださっている方です。私たちは水がなかったら、空気がなかったら、家族がいなかったら、地球がなかったら、太陽がなかったら生きていくことできません。でも、どうしても必要なものって、たいていタダじゃないですか。私たちが生きていくために必要なもの、惜しみなく与え続けている神がおられる。その神はあなたをお造りになった創造主です。
全知全能の神があなたの作者
ところで皆さん、アメリカで大事件ありましたよね。トランプ前大統領が銃撃されたんです。そして耳の一部をパーンッ飛ばされてね、彼はね、脳天狙われてたんですけどたまたま右を向いたので、頭の標的がずれて耳にかすって行ったということだったんですが、共和党の大統領候補受諾演説のときにね、「私は本当だったら死んでいた。だけど神に生かされた。全能の神に生かされているということが分かった。銃撃された直後だったのに、ものすごく安全だという気持ちが湧いてきたんだ」そのときみんな「ワーッ、トランプ」って言うて、大変な騒ぎになりましたね。
あのトランプっていう人はね、熱狂的な支持者も多いが、ものすごいアンチも多いんですよ。まぁ、トランプ嫌いな人はね、銃で殺してやりたいという、まあそういう実行に移すような愚かな人も出て来たっていうことなんですけど、嫌いな人いるんですよ。この間こんなん言われました「トランプのくせにハートがない」上手いことないわー、ハートあるわー。と言いますのはね、今から4年ほど前にね、彼は横田早紀江さんというクリスチャン女性に手紙を送ってるんです。私、その手紙の写しをある方からいただいたんです。
その手紙の内容っていうのは、「横田夫人へ。あなたのご主人の訃報を聞いて、悲しみにくれています。2017年に日本に行ったとき、あなたとご主人に会ったということは、私の人生の中で最高に名誉なことだと思っています。なぜならあなたがたは、くじけない夫婦だったから。自分の娘や、北朝鮮に拉致された同胞たちの真実を知るために、あなたがたはたゆむことなく努力をなさった。その努力に対して私は敬服しています。そしてあなたがたのその努力のおかげで、今や拉致問題解決というのは、日米の重要事項となって今でも続いていることです。私も、めぐみさんやほかの人たちを取り戻すために、ベストを尽くします。あなたとあなたのご家族の上に、神様の守りがありますようにお祈りします」っていう、トランプの名前書いてました。
アメリカの大統領ってね、世界で一番影響力があるんですよ。実際にトランプ大統領は金 正恩という人物をシンガポールに呼びつけて、一番最初に言ったのはね、「拉致問題解決しろ」と「拉致問題解決したらアメリカは制裁を止めるし、金は日本が出す」言うてね、北朝鮮の独裁者に向かって繰り返し言ってくれたのはこの人だけですよ。自分の家族の問題に関心を寄せて、協力するよって言ってくれたら、うれしいんじゃないですか。
しかし、皆さん、神はそれ以上の方です。全知全能の方です。どんなことでもおできになる。そしてすべてのものをお造りになった方。人間が造った神々ではなく、人間をお造りになった方。あなたの作者です。あなたの人生に目的を持っている方です。もし神が作者であなたが作品だったら、作品が壊れても、作者だったら直すことができるんじゃないですか。実は皆さん、イエス・キリストは、人となられた神です。人生の解決は、創造主の中にこそあるんです。この神はあなたのことを造っただけではなく、あなたを愛して、最高のプランをお持ちの方なんです。
是非このキリストを信じてください。心からお勧めいたします。
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2024年12月12日
キリストが目指した着地点
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1274

↓ YouTube より↓
#1274
キリストが目指した着地点
(尼川匡志)
ごきげんいかがですか。尼川匡志です。
さて、2022年内閣府の調査によると15歳から64歳までの人口の2%にあたる147万人がひきこもりだそうです。コロナ禍の影響もありますが、以前に比べて中高年層の増加が目立つそうです。人と人との関わりが希薄になり、関係が崩壊した結果ですね。多くの人が孤立し不安の中で生きています。現代社会の闇が広がっているようです。
聖書には孤立した人たちの記事がたくさん記されています。ツァラアトの人、38年病に伏した男性、姦淫の現場で捕らえられた女性、ザアカイもそうでしょう。そして、今日見る12年の長血の女性もそうです。これらの人たちはいずれも人間関係が壊れ、孤独の中に生きていました。イエスは彼らに近づき、その言葉に耳を傾け、時間を共有されたんです。彼らはイエスの愛に触れ立ち上がりました。今日は長血の女性の記事からキリストが何を目指しておられたのかを考えたいんです。
1つ目、この女性の持っていた悩みです。2つ目、女性が目指していた着地点。そして3つ目、イエスが目指した着地点です。
女性が抱えていた痛み
それでは1つ目、この女性が抱えていた痛みを考えます。
この女の人は5つの痛みを抱えていたんですね。1つ目は肉体の痛み。長血という病は婦人科の病気で、激しい痛みを伴ったようです。以前の聖書には『ひどい痛み』と記されています。かなり辛かったようですね。いつ終わるか分からない痛みの中で彼女は生きていました。
2つ目は精神的な痛みです。良くなると思って医者に行くのですが、かえって悪化したんですね。期待を裏切られた心の痛みは想像ができません。
3つ目は経済的な痛みです。彼女は働けず、医療費がかさみ、12年の間で持ち物を使い果たしたんです。貧しさに伴う不安を抱えていたと思います。
4つ目は社会的な痛み。汚れていると言われる病気でした。ツァラアトと同じです。彼女が触れたものは汚れ、彼女に触れた人は汚れるんですね。誰も彼女に近づくことはしませんでした。会話もなく孤独でした。
そして5つ目、霊的な痛み。「病気は罪のせいに違いない」心無い言葉をかける人もいたでしょう。彼女はこの肉体的、精神的、経済的、社会的、霊的な5つの痛みを抱えていたと言えます。孤独で苦しい時間を過ごしていたんですね。私たちも様々な痛みを持っています。病気の痛み、加齢に伴う痛み、人に傷つけられ心から血を流すこともあります。経済的に不安を抱える痛みもあります。周囲の人たちとの人間関係がうまく築けず社会との関わりを失うこともあるでしょう。更に死の恐怖や罪の悩み、霊的な悩みも抱えます。これらの痛みの中で私たちも心が塞ぎ、孤独と不安の中で生きるんですね。この女性と同じとは言いませんが共通することもあります。
女性が目指した着地点
2つ目を考えます。女性が目指した着地点です。
彼女は絶望の中でイエスのことを聞きました。いつ終わるか分からない苦しみの中で諦めかけていたと思います。そのとき、神からの光が届いたんですね。苦難を願う人は誰もいません。できれば避けたい。でも、どうしても避けれないことだってあるんです。そのとき、あなたにも神からの光が届いているかもしれないんですね。「諦めてはいけない」と。神はあなたの苦しみをご存じです。彼女はイエスに会うことを願いました。
でも、人前に出て行けないんです。彼女は全身を覆い、自分とは分からないようにしてイエスに近づきました。着物に触れることができれば治ると信じていたからです。私は聖書の話をお伝えするとき、さまざまな事情でイエスを公に信じることができない人とお会いすることがあります。そのとき、言うんですね。「誰にも分からないように、まず、あなた自身がイエスに近づき、信じ、祈って、触れてみることです。この方の力を体験したら、そのとき、公にすればいいんです」と。女性は群衆に紛れイエスに近づきました。その瞬間、衝撃が走るんです。12年間彼女を苦しめ続けていた痛みが嘘のように消えたんですね。しかし、同時にイエスが立ち止まりました。振り返って言われたんです。「誰がわたしにさわったのか」彼女は逃げ出したかったでしょう。彼女の願いは既に叶っていたからです。しかし、イエスの願いは遂げられていませんでした。あたりを探されました。イエスにはおそらく分かっていたと思います。ただ彼女に自分の意思で出て来て欲しかった。だから待たれていました。イエスの深い思いが伝わってきます。
イエスが目指す着地点
3つ目、イエスが目指す着地点とは何でしょうか。
私たちは問題解決が着地点だと考えます。しかし、イエスはそうではないんですね。問題を抱えた中でその人が神に出会い、神の愛を知ることが願いです。それがイエスの着地点なんですね。この世界では問題は繰り返します。多くの人がその中でもうダメだと諦めかけてしまいます。しかし、そうではないんです。神は言われます。「わたしを信頼せよ」と「解決の道はあるんだ」とイエスはそのことを彼女に伝えたかったんです。彼女は多くの痛みを抱え、社会から孤立し、希望を失っていました。でも、イエスはこの女性を気にかけておられたんです。いや待っておられたと言っていいと思います。イエスはこの時、ひとりの少女の命にかかわる問題のため、先を急いでおられました。しかし、この女性の痛みを真っ正面から受け止めるため、すべてのことをストップされ、この女性に向かい合ったんです。神が愛している事実を知って欲しかったからです。ですから彼女が出て来るのを待たれたんですね。
そして、その言葉の一つ一つを地に落とさず、大切に受け止められました。いくら時間がかかってもです。私たちが人生で知らなければならない大切なことが一つあります。それは、神は私に関心を持っておられるという事実です。12年の長血の女の記事が聖書に記されたのは、この神の思いをこの女性に、そして、私たちに知って欲しいからだと思います。彼女はほんの少し前まで孤独で誰からも顧みられない自分を、メシアであるイエスが待ってくださっているなど夢にも考えていませんでした。その彼女にイエスは言われたんです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」愛のメッセージです。
あなたも今日、イエスの前に出てください。そして、この愛のメッセージをお聞きください。心からお勧めいたします。
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2024年12月11日
究極の人間リサイクル
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1273

↓ YouTube より↓
#1273
究極の人間リサイクル
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私のカバンにはいつも、折りたたみ式の傘が入っています。突然の雨でも傘があれば便利であるからですね。
ところで、この「雨傘」はいつ、作られたんでしょう。18世紀にイギリスの商人、ジョナス・ハンウェイがペルシャを旅行中に見た中国製の傘に、防水加工を施したことが最初とされています。ところが、ハンウェイは数十年もの間、雨傘を差すたびに世間の笑いものになっていました。
どうして彼は笑われていたんでしょう。当時のイギリスでは傘と言えば、女性が日差しを避けるために使う道具であったんですね。今で言うなら、男性が口紅を塗ったり、ハイヒールを履いたりするような行動なんです。当然、周りの人々から嘲笑され、時には嫌がらせまで受けたのです。
しかし、彼はそんな嘲りにも負けずに上流階級の人が集まるフォーマルなパーティーに、傘を持って出かけ続けたんですね。そのうちに、雨降りでいかに便利であるかということが認識されるようになって、一気に認知されていくんですね。そしていったん偏見がとけると、今まで採用していなかったことが不思議に思えてくると言うのです。しかし、イギリスでは自分たちの作ったこの偏見のために、何十年も、受け取ることができたはずの便利さを受け損ねていたんでした。
ところで、私たち日本人にも偏見があると思います。特に、聖書に対する先入観には、とっても根深いものがあると思います。「あれは外国の宗教の本である」とか、「品行方正な人が読む道徳の本である」とか、まあいろんなイメージが先行していて、はじめっから自分には関係が無いと思い込んでいる方が多いように思うのです。
しかし、聖書は宗教の本ではありません。この世界を造られた生けるまことの神のことばなのです。この世界の第一原因者に国境の区別はありませんね。真理は真理なのです。
さて、この聖書のことばを今日も一つご紹介いたしましょう。
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」
ここから、三つのポイントでお話しいたしましょう。
神はあなたの造り主
第一に、神はあなたの造り主である。ということです。
聖書の語る神は、人が作った神々ではなく人をお造りになった方です。あなたという存在に、あなたという特徴の全てを与えてくださった方なのです。神とは、あなたという存在に、あなたという個性を与えてくださったんです。あなたは、あなたという賜物を神から託されているのだ、と言うことができるのです。
私は先日、フェスティバルホールで、燃える指揮者・小林研一郎さんと、ヴァイオリニストの千住真理子さんのコンサートを聴きに行きました。千住さんの持っているヴァイオリンは、言わずと知れたストラディバリウスです。しかもそれは、世界に4丁しかない「デュランティ」で、数億円もする名器なんですね。
千住家では、何とか彼女にこのヴァイオリンを与えたくて、お兄さんたちが必死で金策に走り回ったという、その話は有名なことです。そんな愛情のこもった天下の名器を、彼女はアーティストとしてそれはそれは大切にしています。大切にするとは、磨いて箱に入れてしまっておくということではありません。この楽器の能力を自分の限界まで引き出すために、徹底的に弾きこなす練習に打ち込むということです。
それと同じように、私たちは一人ひとり、神から自分という特性を持った名器をプレゼントされた存在なのです。ですから、他の人のようにならなくても良いのです。しかし、与えられた自分を乗りこなしていく努力は必要なのです。そしてその第一歩は、自分を神から賜ったものとして受け入れるということなのです。
あなたという存在は、世界にたった一つです。「デュランティ」でも4丁あります。しかしあなたは、人類史上、後にも先にもいない、たった一人の存在ですね。しかも、思慮深い神があなたに託されたのですから、それが無駄なものであるはずがないのです。
神はひとり子を世に遣わした
第二に、神はそのひとり子を、この世に遣わしてくださった方です。
ところで、キリストが生まれた時代とは、どんな時代、どんな世界であったのでしょう。そのころユダヤの国はヘロデ大王という、人間離れした残忍な独裁者に支配されていたのです。
彼は妻を殺し、妹の二人の夫を殺し、義理の兄弟を溺死させ、義理の母親を殺害し、妹を自殺に追い込み、そして自分の死の五日前には、息子を処刑させました。権力を握りながらもあらゆる人を信じられず、明確な証拠もなしに、気に入らん者たちを次々と反逆の汚名をかぶせて殺していったのです。彼の治めた36年間は、毎日のように死刑が繰り返されていたといわれています。
この時代は、暗くて、重くて、息苦しい時代です。人々は希望が見えず、いつもピリピリとしていて、生きていくことがしんどくてしんどくてたまらなくなるような空気が国中に充満していたのです。そんな絶望的な時代、重苦しい国に、神のひとり子は人としてこの世に来られました。なぜでしょう。悲しみや苦しみの渦中にある人間と、運命共同体となるためです。覚えてください。キリストはその重苦しい時代の空気を吸い、自らもヘロデ大王にいのちを狙われたのです。キリストは、苦しんでいる人とともに苦しみ、悩む人とともに悩み、共感し、そばに寄り添う神なのです。そして、今も全く変わることはありません。
キリストはいのちを与えるため来られた
第三に、キリストは私たちにいのちを与えるためこの世に来られた。ということです。
いのちの反対は、死です。そして死の原因は、神に反逆するという罪です。この罪の結果が、死と、死後のさばきなのです。しかしイエス・キリストは、あなたの罪の一切の責任を負うために十字架にかかってくださったのです。そして死後三日目に復活し、死の無い世界、罪の無い世界、永遠の神との交わりが続く世界をもたらしてくださったのです。
私の尊敬する作家、C・S・ルイスの結婚生活を描いた映画に、『永遠の愛に生きて』というタイトルのものがあります。ルイスの妻、ジョイ・デイヴィッドマンはガンの闘病中、小康状態を得、二人は、それはそれは素晴らしいギリシャ旅行を楽しむんですね。
しかし、再びガンが悪化することを予期しているジョイは、こう言うんです。「そのときに私が感じる痛みも、今感じている幸せの一部。そういうことね」寒さを知る人だけが暖房のありがたさに気づくように、不幸なことは幸せを知るための一つの要素なんだ、と彼女は言うんです。
そして、やがて彼女が亡くなった時、C・S・ルイスは遺された彼女の息子を慰めようとして、ジョイの言葉を微妙に変えて、こう言うんです。「今感じている痛みも、そのときに感じる幸せの一部。そういうことなんだ」天国に行くと、今感じている痛みや悲しみの光景が一変します。かつて、辛くて仕方がなかったことですら、輝かしい価値あることの一部に変貌するのです。私はそれを待つ。というのがルイスの信仰です。そして、この信仰は報われます。なぜなら神は、苦しみというゴミやガラクタを、祝福という恵みに変える、究極のリサイクルを完成なさる方であるからです。
どうぞあなたも、このイエス・キリストを、ご自分の救い主として信じてください。心からお勧めしたいと思います。
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2024年12月10日
スラムダンクから人間について考える
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1272

↓ YouTube より↓
#1272
スラムダンクから人間について考える
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
バスケットボールに打ち込む青春を描いた漫画に、『スラムダンク』という作品があります。発行部数1億冊を優に超える国民的な作品で、今でも若者たちに強く支持されているそうです。作者の井上雄彦さんは、この作品を描くにあたって、一つ心がけたことがあるそうです。それは登場人物すべてに必ず一つ欠点を作ることです。
主人公の桜木花道は、才能はありますけれどもバスケットの初心者で経験がないんです。ライバルの流川楓という人はテクニックは凄いけれども体力がないんです。チームメイトの宮城リョータはスピード抜群ですが、背が低いんですね。みんないい面持ってるんですが、致命的欠点もかかえています。
しかし、その欠点を持っている一人一人が作者の描くストーリーの中に組み込まれていくときに、実に感動の物語となっていくんですね。これは実際の世界についても言えると思います。
人間は単独ではどこかに欠点を持つものですが、その欠点を持つ人が、作者の意図通りに組み合わされていくと、実に美しい作品になるのです。しかし、問題は人が自分を造った作者から離れ、欠陥がある自分の考えを正義として主張しているところにあるようです。
聖書はまず私自身が自分の造り主の元に立ち返ることが世界の完成に貢献できる第一歩であると言うんですね。
ではどのようにすれば自分の造り主のところに帰ることができるんでしょう。
イエス・キリストはこう言われました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」
ここにはキリストの三つの自己主張が宣言されています。
罪人が神に至る唯一の道
第一に、この方は罪ある人間が神に至るための唯一の道なのです。
アフリカのタンザニアには、セレンゲティ国立公園という世界遺産があります。四国よりも遙かに大きい公園なんですね。この中には野生のライオン、ヒョウ、ゾウ、キリン、サイ、シマウマなど、まさに大自然がそのままに残されているのです。
ある時、ジャック・ライダーという人が、この自然公園のツアーに参加しました。ツアーといってもガイドと二人きりなんです。毎晩テントを張って野宿するんですね。それで彼は前もってリュックサックに、旅を楽しく便利に過ごすための道具を山と詰め込んで来たのです。食事を取るための道具、物を切るための道具、削るための道具、穴を掘るための道具、方角を知るための道具、星を見るための道具、応急手当をするための道具、まるでアウトドア製品の歩く広告塔みたいになって参加したんですが、ガイドのマサイ族の男の持ち物は、槍と棒だけなんです。
最初の晩にこのガイドがリュックの中身を見たいと言い出したのです。それで彼は文明の利器を地面にずらっと並べてその使い方や性能を自慢したんです。するとマサイの男はひとことこう言ったんです。「これ全部持ち歩いて、おまえ幸せか?」ドキッとしたんですね。というのは実は日中重いリュックサックが肩に食い込んで、景色や動物を見る余裕など、ほとんどなかったからです。
ガイドの提案によってジャックは荷物の選別をしました。そして、どうしても必要な最低限のものだけにして、残りの大半の荷物は近くの村に預けていくことにしたのです。
それから身軽になって旅をしている間、手放した荷物が「ああ、今あればいいのになあ」と思ったことはただの一回もなかったというのです。何か困ったことや、足りない物が出てきたときには、ガイドに言えば良かったからです。ガイドは槍と棒しかありませんでしたが、しかしこのセレンゲティ大公園の自然を知り尽くす人だったからです。
怪我をすれば薬草を見つけてくる。火が必要なときは石でおこす。うまい井戸水のありかも彼の頭の中にはちゃんと入っています。
あるところでどこにも道らしい道が見あたらない荒れ地に出たのでした。それでジャックはガイドに尋ねるんです。「道はどこだ?」すると男は言いました。「私が道なのです」そうです。彼の中にゴールにたどり着くために必要なすべてのものがあったのです。
それと同じように、キリストが道なのです。なぜならキリストの中に、神に戻るためのすべての道備えがあるからです。キリストとつながるということが、そのまま神に戻るということになるんですね。
キリストは真理
第二に、この方は真理です。この真理ということばのギリシャ語はアレーセィアということばです。それは正直、誠実、裏表がない、現実そのものという意味があります。
キリストは誰に対しても、わたしだけが正真正銘の誠実、正直、真実なんだと自己主張されたんです。そんなことを本気で言う人がいたら、普通は自己陶酔のナルシストではありませんか。しかし、キリストは本当に文字通り、徹頭徹尾、誠実の神なのです。と同時に真理とは答えでもあるんです。
人生の目的、世界の存在理由、神の本質とは何でしょう。その答えとは何でしょう。イエス・キリストなのです。キリストが人生の目的であり、世界の存在理由であり、神の本質なのです。それを正気で自己主張する人格をあなたはどう思いますか。そんなことを本気で言うのはとんでもない傲慢人間か、本物の神かのどちらかではないでしょうか。そしてこの方は紛れもなく本物の神なのです。
キリストはいのち
第三に、この方はいのちなのです。ある方は食事の前に、こう言って子どもに教えているそうです。「体の一部になっていただき、ありがとうございます。いただきまーす」なるほど確かに食べ物というのは、私たちの体を作る材料になるんですね。例えば、マグロ2切れを食べたとします。そのマグロは一生で約1000匹のイワシを食べるそうです。そのイワシはアミエビを約5億匹食べ、そのアミエビはプランクトンを約5兆食べてるそうです。このマグロ2切れというのは、消費エネルギーにすると人間が20分生きれる位のカロリーがあるそうです。
つまり、私たちが20分生きるためにマグロ2切れを通して1000匹のイワシ、アミエビ5億匹、プランクトン5兆のいのちを食べていることになるんです。人が生きるためには、別の何物かのいのちが失われなければならないという厳然たる事実がここにあるんですね。
しかし、私たちはどんなに食べてもいつかは死にます。それは神との断絶の結果なのです。私たちは神に立ち返り、神を味わい、天国に至らせるいのちを必要としているんです。そしてそのいのちは一体どこにあるんでしょう。キリストはおっしゃいました。「わたしがいのちなのです」と。
肉体のいのちを得るために生き物のいのちが犠牲にならなければならなかったように、私たちが永遠のいのちを持つためには、永遠のいのちそのものなる方が犠牲になる必要があったのです。その神のいのちそのものなる方こそは、イエス・キリストなんです。どうぞあなたも、このキリストを自分の救い主として信じ、キリストによってご自身の父なる神さまの前に立ち返ってください。心からお勧めしたいと思います。
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2024年12月09日
新しい人生をスタートするために
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1271

↓ YouTube より↓
#1271
新しい人生をスタートするために
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私は先日ちょっといい話を耳にしました。復旧作業を支援する探査ロボットが開発されたっていうんです。このロボットはなかなかの優れものです。70センチ四方の狭い場所で、360度旋回できるんです。急勾配でぬれた階段の登り降りもできます。これは足元が不安定な原子炉屋内でも効果的な作業が期待できますね。時速2キロで走行しバッテリーは5時間もち、しかも、無線でコントロールできるんですね。これをこの会社は無償で貸し出すっていうんです。この会社だけではありません。いま日本のロボットメーカーがこぞって、がれき内で作業できるロボットを次々と開発しているんです。
ところで1つ不思議なことがあるんです。劣悪な環境で作業するロボットのデザインは、自然界にいる生物の姿に似ていくんですね。あらゆる環境で自在に身動きできるロボットの形を追求していくと昆虫や動物や人間の姿に似ていくんです。なぜなら、この世界に生息している昆虫や動物や人間は究極の合理性を持ったデザインを持っているからなのです。あるメーカーの開発しているロボットは、ゴキブリそっくりです。
いったいどうしてゴキブリなんでしょう。ゴキブリは地面の凹凸に影響されることなく、常に体を水平に保って移動できるからです。実はゴキブリの六本足は移動するとき、常に3本が地面にくっついているんだそうです。いかなるでこぼこ道でも、常に3角形の支点で歩行すると支えられている体は、いつも水平状態を保つことができるということがわかってきたんです。醜いものの代名詞とされているゴキブリの移動は究極の機能美を持っているっていうんですね。
万物の設計者・創造者
ところで合理的なもの、効率的なもの、知能的なものは、どれもこれも、考え抜かれた結果、生み出されてきた作品です。優れたロボットは、優れたロボット設計者の知恵の産物です。賢い設計者なしには、賢いロボットはできないのです。それなら、ロボット設計者が思わず見とれてしまう自然界の生物にも、設計者がいると考えられるのではありませんか。この世界は偶然にできたのではありません。この世界を始めた作者がおられます。宇宙を作り、地球を命ある星に整え、自然界を設計し、あなたという人をお造りになった方がおられるのです。この世界とその中にあるすべてのものを作られた作者を聖書は神、創造主と呼んでいるのです。
ところで過酷な現場でロボットが故障したら、いったいどうしたらいいでしょう。開発メーカーに送って、修理してもらったらいいんですね。ロボットが壊れたらロボットの作者に持っていくことです。作者なら壊れた作品を直すことができるからです。
では、もしも人間が壊れたなら、どうすればいいんでしょう。人生が破壊されたように思うときどうしたらいいんでしょう。人間の作者のところに行けばよいのです。作者ならば壊れた作品を直すことがおできになるからです。そして、作者ならば愛着のある作品が壊れたままでいるでいることに耐えられないからです。神はあなたを再生してくださる方なのです。
聖書の中にこんな言葉があります。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
神は、キリストによって壊れた人間を新しく作り直してくださるというのです。そして、新しく作るためには、まず古いものを撤去しなければならなかったというんです。
人間の再生を計画された神
私の家の近くに阿部野橋というターミナルがあります。今そこに新しいビルを建設中なのです。その周り一帯が一大ショッピングモールとなっています。ところで、これらの新しいビルが建つためにいったい何が起こったことでしょう。以前このあたり一帯にあった古い長屋や商店街が、全部更地にされたのです。新しいものを建てるためには、まず古いものが取り除かれなければならなかったのです。これは倒れかかった木を新しく再生するときにも言えることですね。
会社を更生させるとき再スタートを切るときにまず第一にせねばならないことは、負債を免除してもらうということです。大きする借金、返しきれない負債を負っている限り、再生はできません。まず借金を帳消しにしてもらわなければならないのです。人間も同じなのです。新しい人間として新しい人生をスタートするためには、まず、罪という借金を許していただかなければなりません。この罪とその生き方を聖書は古い生き方といったのです。そしてこの罪という古いものをキリストは過ぎ去らせてくださったのです。どのようにしてでしょう。罪のないキリストが私たちの罪を身代りに背負うことによって、私たちから罪を取り除いてくださったのです。
人生における最高責任者キリスト
第二に、企業が再生するためになされなければならないことは、新しい経営陣を受け入れるということです。神は私たちの人生を新しくするために凄腕の、できる、切れる、偉大なるCEO最高責任者を与えてくださいました。それが、イエスキリストなのです。
しかし、十字架の上で私たちの身代わりに死んだキリストがどうして今生きている私の最高責任者になることができるのでしょう。キリストは十字架で息を引き取られて終わっただけではなく、死後3日目に復活し、天に上り、今も生きている方なのです。イエスキリストはご自身を救い主として信じる者の心の中に住んでくださる方です。あなたの中に宿ってあなたと共に人生を生きてくださる方なのです。私たちに必要なのはそうしてくださいとキリストに願う決心だけなのです。
新しい歩みへの勇気ある一歩
中国のことわざに百聞は一見にしかずというのがありますね。百回聞くより、一回見たほうが早いということです。しかしこれには続きがあります。百見は一考にしかずがそれです。一考というのは、一つ考えると書きます。百回眺めているだけより、じっくりそれが正しいかどうかを一つ考えてみるほうがすぐれているという意味です。
しかし、さらに続きがあるのです。百考は一行に過ぎず、です。一行というのは一つの行い、行動です。百回考えて正しいとわかっても行動しないなら何も考えなかったのと同じだという意味なのです。
どうぞ、あなたの救い主イエスキリストを心の中に受け入れると決断し、この方を信じると生ける神様の前に祈ってください、心からお勧めしたいと思います。
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2024年12月02日
福音熟考 in 熊本
《福音 みことば》
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#1270
福音熟考 in 熊本
(那須清志)
ごきげんいかがですか。那須清志です。
先日、義理の父親の付き添いで熊本県の天草を訪れました。そこは父親が子ども時代を過ごした懐かしい故郷です。電気がなかったころの様子や山で花を摘んで町に売りに行ったなどの昔話は何度も聞いてきました。今ではかなり拓けた現地でそのことを楽しそうに話す90歳を越えた父親の笑顔が印象的です。
故郷を懐かしむ思いは誰にでもあると思いますが、「魂のふるさと」なるものがあるのをご存じですか。肉体は父親と母親を通して、母の胎から生まれますが、私たちの魂の源は創造主なる神にある。と聖書は語ります。ところが人間は創造主なる神から離れてしまいました。または、目に見えない神を木や石でできた偽物の神と取り替えてしまったと言います。聖書に次のようにあります。
「主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」
今日も3つのポイントで考えていきましょう。
多くの人は不完全さに気づいている
第一に、多くの人は薄々人間の不完全さに気づいている。ということです。
熊本の方と話しているときに「目にできたいぼ」の話になりました。みなさんはそれを何と呼びますか。私が育ったところでは「めぼ」と言っていました。「目のいぼ」を縮めて「めぼ」。一番シンプルで、一番いい呼び方かなと思ったのは都会に出るまでです。関西では「めばちこ」と言います。初めて聞いたときは、なんかばっちいものみたいに聞こえました。でもそれも方言で一般的には「ものもらい」とも言います。正式名は麦に粒と書いて「麦粒腫」です。これも仰々しいな、と思ったものです。
ところが熊本ではこれを「おひめさま」と呼ぶのです。年配のおじさんが「おひめさまできた」と言うのを聞くと衝撃ですよね。
同じものでも言い方はいろいろです。聖書は人間の不完全な状態のことを「罪の中にある」とか「罪人」と表現しています。これは法律を犯した犯罪者というよりは「あるべき姿ではない、的をはずしている」という意味です。人間は神から離れて「罪の状態」にあるので、ある人は法に触れるところまで悪に進んでいくといいます。人間の法律の基準からは有罪にならなくても、はるかに高い神の基準からすればみな有罪になってしまったというのです。
このことを多くの人は不完全ながら気づいているのではないでしょうか。それも真剣に善を求める人、実直に生きようと思えば思うほど自分の不完全さを感じ、ある人は自分を責めたり、それから脱却しようと努力したり、信心することもあります。未熟、我欲、煩悩、不全感、まだまだ修行が足りない…などの、表現は違っても人間の不完全さを多くの人は認めていると思うのです。聖書の人間観から言えば、それは「正直な人間の告白」で人間を正しくとらえていると評価しています。
神は人間の問題を解決しようとされた
第二に、人間の問題を解決しようとされたのは神である。ということです。
人間の不完全さに薄々気づいていても、自分で何とかしなければとか、自分で何とかできるだろうと軽くみてしまう傾向が人間にはあります。ところが思った以上にその症状は重く、人間の解決能力を遥かに超えており、それゆえに神ご自身がその解決を図ったというのが聖書が語る福音です。
熊本と言えば2016年に見舞われた大きな地震のことを思い起こす人も多いでしょう。熊本城は大きな損害を受けました。地震前に訪れ、天守閣の近辺を当時の姿に復元していこうという地元の熱心さに少し触れていた私は、地元の方々が精神的に大きなショックを受けただろうと容易に想像できました。
今回、その修復の様子を見ることができました。何はさておき天守閣を最優先に修復し、地震から5年たった2021年には復旧工事が完成し、今は見学することができます。そこに至る道には応急措置を施された石垣が随所にありますが、簡単にアクセスできるように巨大な空中通路なるものができていて、人々の熱意を感じました。多くの案内ボランティアの方が待機しており、ある人が「この櫓は復旧にはあと5年、全体の復旧にはあと30年かかります…」と説明していました。復旧にあと30年、気の遠くなる時間ですが、何としてもやり遂げるでしょう。
それを聞いていて「神の救いの計画」を思い起こしました。神と人間との関係修復、人間の罪の問題を解決し、神のもとに人間を招くために立てられた計画は十年単位ではなく、百年単位、千年単位で成し遂げられたものです。
人間の良心や正直さにつけこみ、多くの宗教が人間の手で生み出されました。そのままで救われるなんて虫のいい話であって、これをしなけらばならない、あれをしなければならないと、人間に行いを要求してきたのです。しかし、聖書の救いは神から来ます。人間が神のためにすべきことを考えたのが「宗教」ですが、人間のために神がしてくださったことを示すのが「福音」です。
神はイエスを通して人間を救われる
第三に、神は救い主イエスを通して人間を救われる。ということです。
先ほどの聖書のことばの続きにはこうあります。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──主のことば──」(イザヤ55章8節)
神の方法は人間の発想を遥かに超えたものでした。神は救い主イエスを送ることを約束されました。イエスは、完全な人であると同時に神が人の姿をとられた特別な方で、人類の罪を背負って十字架の上で身代わりの死を遂げるというものでした。その救いの真実性と有効性を示すために、予告通りに死後3日目に死を突き破ってイエスは復活したと聖書は証言します。この歴史的事件が世界を変えました。
熊本城に比べると超マイナーな場所ですが、天守閣からも見える花岡山があります。その頂にキリスト教解禁間もない明治時代、熊本洋学校の若者34名が集まり、イエスを信じるという盟約を交わした場所が残っています。政治家・石破茂の曽祖父にあたる金森通倫(みちとも)もその一人でした。家に呼び戻され、著名な先生から邪教に迷ってはいけない、と叱られ諭されました。「邪教の本など読むものか」と言われた金森は「先生は大学の講義で空想はだめ、実物に触れて究めないと真理には至らないと言われているのに、どうして聖書に触れずに邪教邪教と言われるのですか…」と反論して呆れられます。また、後に外交官になった吉田作弥の親は刀を抜いて棄教を迫りました。吉田は静かに頭を差し出して「父上の手で死ねるならば本望です」と言ったといいます。もちろん父親は刀の背で首筋をたたいたまでで、命を取ることはありませんでした。
命をかけても惜しくないと思わせたのは聖書が示す圧倒的な事実です。人類の救いのために父なる神は人間の身代わりにイエスをさばかれました。まさに親が手に下すようなことが救いのためになされたのです。これは神の人に対する愛のゆえです。今から2000年前にその計画は成し遂げられました。
ぜひ、あなたもこの神の救いを受け取ってください。私たちが何かをするのではなく、神がしてくださったことを感謝をもって受け取ることです。自分の不完全さを認め、方向転換する用意のできている人は、だれでもこの救いをいただくことができます。心からお勧めいたします。
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2024年12月01日
心騒がせずわたしを信じなさい
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1269

↓ YouTube より↓
#1269
心騒がせずわたしを信じなさい
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
「徹子の部屋」でおなじみの黒柳徹子さんは大変ユニークな小学校を卒業なさいました。トモエ学園という自由と創造性を優先した学校です。黒柳さんの在学時代、小林宗作という方が校長先生でした。しかし、彼が心血注いでつくりあげたトモエ学園は、戦争中 B29の爆弾攻撃で炎上してしまうのです。
目の前で燃えて行くその校舎を見ながら小林校長は傍らにいた大学生の息子にこう言ったそうです。「さあ、次はどんな学校をつくろうかね!」形あるものはやがて壊れ、すたれ、燃えてなくなることもあるでしょう。しかし、心の中にあるものを物理的に壊すことは誰にもできないのです。
ですから、こう言うことができると思います。最も豊かな人とは心の中に確かな約束を持っている人である。確かな約束とはこの世界を造られた神の約束です。神は約束したことは必ず果たされる方であるからです。
ところで、キリストはこのように語っておられます。
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
私たちは毎日の生活の中で心配や不安にさいなむことが多いですね。しかしその原因は、私たちが信頼すべき真の神から離れてるからだと言うんです。どうして創造主から離れると心が騒ぐんでしょう。
神を見失うと自信を無くしてしまう
第一に、神という絶対的主権者を見失うと、この世の物差しで自分を測って自信を無くしてしまうからです。
『毎日かあさん』という人気漫画で知られる西原理恵子さんのその生い立ちはどん底だったそうです。実のお父さんは酒乱で、彼女が生まれる前にお母さんは暴力から逃れるために離婚しました。やがてお母さんは再婚しますが、その相手は根っからのギャンブル依存症だったのです。
彼女は高三の時、友人と宴会騒ぎをしているのがばれて退学になります。唯一の特技だった絵で身をたてようと大阪の芸大に進学を決めます。しかし、その受験当日ギャンブルで全財産を失った父親は自殺してしまうのです。彼女は絵を描く人になって東京で食べて行く!もうこんな嫌な思い出しかない街には二度と戻らない!と決意し、母親がかき集めてくれた全財産100万円を持って上京するのです。まさに背水の陣で絵描きへの道をまっしぐらに進んでいくんです。
彼女は美大に入るためにまず予備校に入学しました。ところが、そこで出される課題に対して彼女が提出した絵の評価は毎回毎回ダントツの最下位なんです。自信たっぷりで出した作品はことごとくダメ出しを食らうのです。お母さんからもらった100万円は学費と家賃と一人暮らしに必要なものを買っただけでほとんど底をついていました。それなのにプロになるどころか予備校ですら上位はおろかビリッケツです。さしもの彼女もすっかり心が折れてしまうのです。何しろ受験のプロたちが、毎回毎回あなたはダメだダメだと言うんですから自信など持てなくなって当たり前です。
しかし、その中で彼女はふと気がつくんです。自分は予備校で一番になるために上京したんじゃない。自分の本来の目標は絵で食べていくことだ。さっさと美大を諦めた彼女は、片っ端から東京の出版社に自分のイラストを持ち込んでPRをします。断られても断られても作品の持ち込みを続けていく中で、やがて彼女の絵ではなくあっけらかんとした性格が同情をうみ、絵を描かせてもらう機会が開かれていったと言うのです。
今や押しも押されもせぬプロの漫画家になりました。そんな彼女の心を一度へし折ったものはなんだったでしょう。この世の物差しです。それは実力を測る点においては参考になりますが、しばしば本来の目標、本来の目的を見えなくさせてしまうものになります。
この世ではどんな人が価値あると言われるでしょう。勉強ができる人、成績が良い人、能力の高い人、美しい人、役に立つ人。そういうものは確かにある面で実力を測るその物差しにはなっていますが全部この世の見方です。
しかし、神はあなたをそのままで価値ある存在だと見てくださってるんです。なぜでしょう。神があなたをお造りになったからです。絶対に間違ったり、しくじったりしない神が造ったあなたという存在がどうして生まれて来ない方が良かった存在なんかであることでしょう。ありえないことです。
神は人が欲するものを満たされる
第二に、神を離れて生きるなら、人間は人間らしさを保つ祝福を受け損ねてしまうからです。
ところで、人間はいろんなものを必要とし、その必要物が無くなってくると、なんとしてもそれが欲しくて欲しくてたまらなくなるものだと思います。
私の場合欲しいものは年齢によって変わってきたように思います。幼いころ私が一番欲しいと思ったのはお金でした。母子家庭で育った私は、金さえあれば母を楽させてあげることができるのにと思っていたんです。お金さえあったら辛い生活から解放されると思ったからですが、いわばお金が人生の安全を保障してくれるものだと考えていたのです。お金が私の安全欲求を満たしてくれると考えたのです。
中学生になったとき私が一番欲しいと思ったのは本物の親友でした。私にはたくさんの友がおり、また親友と呼べる人もいましたが、心の中でもっともっともっと分かり合える友が欲しいという愛情欲求がいつも渦巻いていたように思うのです。
クリスチャンになった後で、私が一番欲しいと思ったのは先輩のクリスチャンからの承認の言葉であったように思います。要するに褒めてもらいたいという気持ちがとっても強かったと思うんです。この欲求を別の言葉でいうなら尊敬欲求です。自分を大切にして重要人物だと思ってもらいたいというたぎるような欲求が、私の中にいつも渦巻いていたように思います。
しかし、この10年ぐらい私が欲しいと思っているのは体力です。特にたびたび襲いかかる胃の痛みで活動がままならなくなった時には健康のありがたさを思い知りました。
結局私は手術をしてその痛みからは解放されましたが、一つ治ると別のところがまた故障するんですね。それは年齢とともにますますそうなっていくのでしょう。ですからますます健康とタフな体が欲しいというのが私の願いです。どうしてタフでいたいかと言うと、タフでなければ自分が大切にしている共同体に何の貢献もできなくなるのではないかと恐れるからです。ひいては自分の所属している仲間たちから切り離されてしまうようなイメージを持ってしまったからです。
つまり私は安全、愛情、尊敬、所属というものを欲していたんです。そしてこの4つは、神を心の中心に置くならば4つとも全部満たしていただけるものなのです。なぜなら、神はあなたを死後のさばきから守り、ひとり子を与えるほどに愛し、神の目に高価で尊いと呼びかけ、神の家族という究極の共同体の一員に加えてくださる方であるからです。
ではどうすればこの神とつながることができるんでしょう。イエス・キリストです。イエス・キリストを救い主として信じることによって私たちは神に帰ることができるのです。どうぞあなたもイエス様を救い主として信じてください。心からお勧めしたいと思います。
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2024年11月24日
人生における不毛の質問
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1268

↓ YouTube より↓
#1268
人生における不毛の質問
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、ロシアという国は、昔から薬物・毒物に国家ぐるみで関わることで有名でした。
帝政ロシア末期に権力をほしいままにしていた怪僧ラスプーチンの暗殺には、青酸カリ入りのお菓子が使われました。ソ連時代に入ると本格化していきます。
権力を手にいれたレーニンは、極秘の毒物研究所を1921年に設立しました。それは、ソ連政府の敵と戦うためでした。
ところが、皮肉なことに最初の犠牲者はレーニン本人でした。スターリンが黒幕であった可能性が高い、といわれています。毒殺研究は、今のプーチン政権にも引き継がれています。
2006年にはロンドンで、英国に亡命中のロシアの元情報将校が、放射性物質ポロニウム入りの紅茶を飲まされて死亡しました。犯行はおそらくプーチン大統領の承認を得ているという調査結果を、イギリス当局が発表しています。
リオオリンピックの直前に世界を賑わしたロシアのドーピング問題も、構図はそっくりです。世界アンチドーピング機関の調査チームは、国ぐるみの不正だと断定したのです。にもかかわらず、国際オリンピック委員会は、リオオリンピックのロシア選手団全面除外処分を見送りました。これにより、どんなに証拠が挙がっていても、相手が大国ならば無理が通るという前例を残してしまったのです。
世の中にはときどき、力の前に正義が曲げられたり、公正がゆがめられたりすることがあります。そして、そういうとき、それに腹を立てて愚痴るだけの人になってしまいそうになります。
人生の中で次々と起こる不公正や不正義や不条理に対して、私たちはどのように対応していったら良いのでしょう。
聖書の中にこんな話があります。
あるとき、生まれつきの盲人を、イエス・キリストがご覧になりました。そのとき、弟子たちがキリストに質問するのです。それは、実に残酷な質問でした。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。それともその両親ですか」。
人生における不可解な問題を目の当たりにするとき、私たちがついしてしまいがちな不毛の質問が3つあります。その問い方をしている以上、人生は行き詰まります。
不毛の質問① 誰のせいか
その第一の不毛の質問は、「誰のせいでこうなったのですか」と問うことです。
ちょうど、先ほどの弟子たちが言ったとおりです。この問いには、必ず、自分の不幸には犯人がいる、私は誰かのせいでこうなってしまった被害者なのだ、という見方を不動の事実としてしまうものがあります。
実際、誰かのせいでひどい目に遭ったとしかいえない事件っていうのはたくさんありますね。しかし、誰かのせいで起こった事件と、その事件の後の人生をつくった責任とは、分けて考えなければなりません。辛い事件の後でどんな人格になったのか、どんな人生を歩んだかを決めるのは、誰かではなく、ご本人であるからです。
しかし、誰のせいで、という問いにしがみついていると、新しい人生の展望は開けません。それどころか、いつまでも、自分の気になるあの誰かに支配されたままになってしまうのです。
不毛の質問② いつになったら
不毛の質問の第二は、「いつになったら」と問うことです。
いつになったら、送ったメールの返事が来るんだろう。いつになったら、息子は期待どおりの学校に合格するんだろう。いつになったら、景気はよくなるんだろう。いつになったら、孫が生まれてくるんだろう。この「いつになったら」という質問も、人を不幸にする問いです。というのは、たいてい、自分ではどうにもできないことに、自分の人生の土台を置く見方であるからです。
私たちは、自分でどうにもできないことが少なくとも2つあります。それは、過去を変えることと、他人を変えることです。いつになったら夫は変わるんだろう。いつになったら妻は変わるんだろう。期待することはよいのですが、そこにこだわっていると、今自分ができる事をしなくなってしまいます。
自分でできないことを手放し、今自分ができることに集中していくことこそ、人生が変えられていく道です。そして案外、今自分ができることというのは、確かにあるものなのです。そして、自分ができることに専念していくとき、思い煩いからの解放が訪れるのです。
不毛の質問③ なぜこうなったか
第三の不毛の質問、それは「なぜこうなったか」という問いです。
なぜ、私の身の上にばっかり不幸が続くんだろう。なぜ、あの人ばっかりうまくいくんだろう。なぜ、このタイミングでこんなことが起こるんだろう。うまくいかないことと、うまくいかない理由を自分の外側に探し続けて、なぜなんだ、なぜなんだと問うていると、人生に打ちのめされてしまいます。なぜなら、打つ手が何もないように見えてくるからです。
今起こっていることの意味や理由は、普通は、すぐにはわからないものです。私たちは今しか生きてないので、今目の前の事件が、10年後、20年後、どんな展開に至っているかなど、思いもつかないからです。
キリストの答え
では、キリストの答えはなんだったのでしょう。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」
あらゆる不条理なことは、神のわざが現れるための舞台だというのです。
私たちがすべきことは、なぜ、と問うことをやめて、今のこの辛い現状の中でキリストに力を現していただくために、私がキリストに求められていることは何かと考え、それをすることなのです。
私たちが人生に対して、なぜなんだ!と怒っているとき、それは神に対して怒っているのとほぼ同じです。そして、怒りの正体の根底にあるのは、神よりも私の怒りのほうが正しい、という前提です。その怒りは、神をとっちめようとする人間の怒りなのです。しかし、どんなときでも、神は人よりも賢く、人よりも正しく、人よりもあわれみ深いかたなのです。
じつは人生は、私が「なぜ?」と問うものではなく、私のほうが、人生と神から「さあ、あなたはこの課題に対してどのように応答しますか」という問いなのです。
「あなたはどのように反応しますか。わたしのことばの前にへりくだって従いますか。それとも今までどおり、あなた自身が正義の審判者となって、人生と神をさばき続けるのですか」と、問うておられるのです。
人間的に見たら、自分の側のほうがよっぽど正しい、ということであったとしても、神様の前には、今までの自分はどうだったのか。100%正しかったのか。
私の側に改める点はなかったのかと、問われていくということが、その人の人生に神のわざが現れる第一歩なのです。
どうぞ、神の子イエス・キリストの主権の前に、ひれ伏して、このかたの救いの招きを受け入れてください。心からお勧めします。
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2024年11月17日
キリストにある永遠のいのち
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1267

↓ YouTube より↓
#1267
キリストにある永遠のいのち
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私は先日、非常に興味深い記事を読みました。現存する陸上生物の中で、最強の動物は何かっていうんですね。答えは、アフリカゾウです。というのは、体重が6トンもあるのに、走り出したら時速40キロにもなるのです。これは、オリンピックの100メートル走の選手よりも速いスピードです。6トントラックが時速40キロで、ノーブレーキで突進したとき、正面衝突して生きている生物はほとんどいません。このように凄まじい衝撃力を持っているのがアフリカゾウなんですね。
実は、アフリカゾウがサバンナでシロサイを攻撃して突き殺すという事件が続発したことがあったのです。野生の動物は、腹が減っている時にはイライラするでしょう。特に肉食動物は、草食動物を食べなければ生きていけないのですから、空腹の時には襲撃するわけです。しかし、草食動物が同じ草食動物を意味もなく、ゲーム感覚で突き殺すというのは異常事態なのです。
しかし、アフリカの国立公園の観察者たちは、この象の暴走行為の原因に思い当たることがあったというのです。このサバンナでは一時期、象が大量繁殖したことがあったんです。大食漢の象が増えるとサバンナは大変な飢饉になります。というのは、一頭で一日あたり200キロの植物と100リットルの水を平らげてしまうんです。つまり1年間では60トンの植物が消滅します。畑にすると、3ヘクタール分が不毛の(更)地になってしまうんです。
それで係官たちは、象の間引きをしたのです。増えすぎた象の数を減らすために、一定数撃ち殺していったんですね。その時、象の全ての世代から満遍なく間引きしたのではなく、年老いた象ばかりを殺処分したのです。その結果、象の群れの中から若い象にサバンナの掟を教える世代が丸ごと忽然と消えてしまったのです。
人間が自分の意のままに振る舞うと世界は滅びる
象はとても賢い生き物だそうですね。マサイ族の男が近づくと警戒しますが、女性が近づいても警戒しません。なぜなら、マサイ族で狩りをするのは男だけだと知っているからです。この象の群れの中には、サバンナで生きるルールを教えるシステムがあるのです。
ところが、この長老格の象が一頭もいなくなった結果、若い象たちはやりたい放題でそのまま大人になってしまったのです。これらの象が成長した時、もはや彼らをとどめるものは何もありませんでした。彼らは気分次第で大暴れする、サバンナの無法者集団となってしまったのです。最も力のある動物が自分の意のままに振る舞うと、サバンナの世界が崩壊するのです。
ならば、象よりももっと知恵のある人間が自分の意のままに振る舞うなら、この世界は一体どうなるでしょう。滅びるのです。
聖書はこう語っています。
「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」と。
今の世界が破壊と悲惨に満ちている原因は何でしょう。人間が罪の支配を受けているからだ、というのです。では罪とは一体何でしょう。この世界の創造主を忘れ、オーナーである神から離れ、自分こそは世界の中心であるかのように振る舞うことを罪というのです。本来中心でもない者が自分を中心に考えて、自分の思いのままに周りを支配すること。これを罪と語るのです。
ところで、人生ってなかなか自分の意のままになりませんね。長生きしてほしい人に限って早く亡くなり、この人何とかならんかと思う人に限って元気だったりします。会社でも学校でも家庭の中でも、誰もが一番疲れ果てる原因は人間関係です。自分の期待通りに周りの人が応えてくれないということによって、イライラが募ってくるんですね。
周りが意のままにならない理由
ところで、どうして周りの人々は私の意のままにならないんでしょう。私はその人たちの中心ではないからですね。私の周りの人々は、私のために存在しているのではないのです。また、世界は私のために存在しているのではありません。では誰のために存在しているんでしょう。神のために存在しているのです。
先日、一人の聡明な女性が一つだけ質問するので短く答えてほしいというんです。私はドキドキしながら伺いました。
「世の中を見渡すと、どう考えても恵まれている人、幸せな人、生まれた時から憎らしいほどにあらゆる良いもので満たされている人がいる。そうかと思うと、生まれた時からどうしようもないほどにまで、惨めな条件を備えている人もいる。どうしてこんな不公平を神は赦すのか。私は今までいろんな教会へ行ってこの質問をしましたが、説明を聞けば聞くほどイライラします。どうしてこんなことを神様は赦すんですか。一言で私を納得させてください」っておっしゃるんですね。
そんなの一言でできません。私にはできませんが、一つだけ言いました。「納得できないのは、説明が悪かったからではなく、あなたの世界観が転倒しているからだと思います」と申し上げたのです。
この世界は神のために造られた
この世界は、あなたが納得するために造られたのではありません。神のために造られたのです。神は、私たちには分からない理由で今のこの世界をまだ保っておられるのです。それに対してけしからんというのは、あなたのほうが神よりも賢く、正しく、偉大だということです。
神のために存在している世界を、自分のために存在していると思ったり、世界の中心は神なのに、自分が世界の中心だと考えることを聖書は的外れ、罪だと語っています。腹が立って仕方がない理由の一つは、自分を世界の審判者にし、神を被告人扱いしているからだと思います。
ちょっと言い過ぎたかな、と思って心配したんですが、彼女は深く頷いているではありませんか。そして、「分かりました。そうだったんですね」って、おっしゃったんです。
なぜ自分の罪が分からないんでしょう。なぜ人生の目的が分からないんでしょう。なぜ世界の目的が分からないんでしょう。自己中心で世界を見るからです。
万物の存在の目的は神なのです。そして、この方が罪によって神を見失った私たちのために、キリストを与えて罪を赦してくださったのです。あなたの罪の赦しのため、神はキリストを身代わりにさばいた後、三日目によみがえらせてくださったのです。だれでも、このキリストを信じるなら、罪赦され永遠のいのちをいただくことができ、そして永遠の天国に行くことができます。そして、永遠の天国で初めて帳尻の合った調和した世界を見、この世界の不公平を納得することができるのです。
私は先日、自宅に戻ると留守番電話に録音がなされていました。アルゼンチンからの国際電話だったのです。ところが、録音状態が悪く名前がどうしても聞き取れないんですね。しかし、その内容は私を温かく励ます言葉だったのです。実はその日、私の誕生日でした。私はその方の姿を見ることはできませんが、しかし彼女の言葉によって大いに力づけられたのです。地球の裏側に私を祈ってくださる人がいると知ったからです。
神は見えません。しかし、天であなたのために祈り、あなたの帰りを待っている方なんです。どうぞあなたも、神が備えてくださったキリストを信じてください。心からお勧めします。
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2024年11月10日
ペテロの失敗に学ぶ
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1266

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#1266
ペテロの失敗に学ぶ
(尼川匡志)
ごきげんいかがですか。尼川匡志です。
私は現在熊本に住んでいます。関西や関東への移動は大抵飛行機です。友人には飛行機以外の人が多くいます。理由は高所恐怖症だったり、鉄の塊が空を飛ぶのはおかしいという感覚的な理由だったりします。
しかし、実は飛行機ほど安全な乗り物はないそうです。アメリカの国家運輸安全委員会によれば、飛行機で死亡事故に遭遇するのは0.0009% つまり100000分の1未満の確率だそうです。これは入念な安全点検の賜物であり、墜落事故機からブラックボックスを回収し、原因究明を徹底的に行ってきた努力の積み重ねの結果なんですね。つまり、失敗から学んできたと言えます。
さて、航空機事故は別として、人生の中に失敗はあっても良いのではないか。私はそう考えているんです。不必要なものではないからです。
失敗のなかには人生を転換する力が秘められているんですね。今の時代、失敗を嫌い無難に生きようとする傾向が強いのではないかと思います。安全志向は確かに大切ですが、ただ安全を願って生きているなら、本当の人生の醍醐味、素晴らしさを味わえないんじゃないか。私はそう思うんですね。
聖書には人間の失敗がたくさん記されています。新約聖書でNo. 1のしくじり先生は、なんといってもペテロでしょう。今日はこのペテロの失敗のなかにある宝を見たいんですね。3つのことを考えながら進めていきます。
失敗までのプロセス
1つ目、失敗までのプロセスです。2つ目、失敗の理由です。3つ目、失敗のなかで見出した宝です。
それでは1つ目、失敗までのプロセスです。あえて失敗をすることをお勧めしませんが、失敗のなかには素晴らしい宝が詰まっています。多くの失敗は今まで経験したことがない、新しい一歩を踏み出した結果起こるんですね。ですから、不安がつきまとうのは当然です。
しかし、もしあなたがいま神を信頼し、前進することをお考えなら躊躇せずにその道を一歩踏み出していただきたいんです。ペテロと同じように神はあなたを守り、素晴らしい体験をさせてくださることに間違いがないからです。
さて、私は大阪で信仰を持ち、奈良へ福音宣教のため15人の仲間たちと前進しました。60歳のとき家内と2人で宮崎に移り、66歳で熊本に引っ越したんです。福音宣教のためです。新しいことにトライするのですから、当然失敗もしました。倒れ立ち上がれないことだって多くありました。しかしその失敗と思えるなかにこそ、大切なものがあったんですね。ですから失敗は失敗とは言えないんではないか。神を信じる者には、失敗はないのかもしれない。そう思うんです。
さて、あるとき弟子たちはイエスに湖の向こう岸に渡るように言われ、舟に乗り込み出発しました。あいにくの向かい風で舟は進みません。夜明け近くになり、イエスが湖の上を渡って彼らのところに近づかれたんです。彼らはイエスを幽霊と思い恐れます。イエスは言われました。「わたしだ。恐れることはない」するとペテロがイエスに言ったんですね。「あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と。「来なさい」と返されました。そしてペテロは舟から出たんですね。
すごくないですか。嵐の湖ですよ。出たら死ぬ。それが私たちの常識です。ですが、彼は自分の常識ではなく、イエスのことばを信頼したんです。だから出ました。愚かに見える行為です。彼は神に不可能はない、そう信じたんですね。その結果、水の上を歩いた唯一の人間になりました。あなたは安全だと思っている場所から、神を信頼して一歩外に出ることができるでしょうか。簡単ではないんですね。しかし、それは間違いなくあなたの人生を変える一歩になるはずです。
失敗の理由
2つ目、失敗の理由です。ペテロは舟から出て水の上を歩きました。一歩また一歩、イエスに近づいて行ったんです。未知の体験でした。慎重に進んだんです。ペテロは自分の力で水の上を歩いているとは考えていなかったでしょう。信仰によってイエスの持つ神の力で歩んでいた。十分にわかっていたはずです。
しかし水の上で歩こうという、自分の意思を働かせなければ前に進むことってできませんよね。右足と左足を交互に動かさなければならないんです。少し前傾姿勢を取り、進もうとしたから歩けたんですね。勝手にペテロの手足が動いたわけではありません。私たちは神の支えで生かされ、歩んでいきます。その時私たちは何もしなくてもいいのではないんです。自分の意思を働かせ、自分の力でしなければならないことだってあるんですね。
ここに私たちが間違ってしまう理由があるような気がします。ペテロがこの時、どう考えていたのかはわかりませんが、ふと自分の力で水の上を歩いている錯覚に襲われたのかもしれません。それは不可能なことなんです。
聖書には、風を見て怖くなったとありますが、風は見えませんよね。彼は自分の現状を見たのではないか。イエスを信じてというところから、自分の力でなんとかしなければならないと思ったような気がするんです。神ではなく自分の力で、そう考えた瞬間ペテロは沈みました。自分の力では不可能なんです。
失敗の中で見出した宝
3つ目、失敗のなかで見い出した宝です。
イエスとペテロの間隔がどれぐらいあったかわかりません。しかし彼が沈んだ瞬間、イエスの手がペテロを掴んだんです。身体全体がイエスの腕一本にかかりました。完全にぶら下がった状態です。ペテロも自分の体重を感じたことでしょう。ゆっくりと引き上げられていきました。神の力強さを味わった瞬間です。
これが神の力だと言うつもりはありませんが、イエスに握られた感覚をペテロは生涯忘れることはなかったはずです。イエスとペテロは舟に戻りました。舟の弟子たちは全員イエスに「あなたは神の子です」と告白しました。しかし舟の弟子たちとペテロとでは、体験したことがまるで違うんです。舟の弟子は全てを見ていました。それは幸いなことです。
しかし、ペテロは神の力を味わったんですね。イエスが掴んでくださった手の感覚を間違いなく生涯の宝にしたはずです。イエスとともに歩む人生には失敗はない。私はそう考えています。失敗に見えることのなかに神を体験するという宝があるからです。
キリストともに歩む人生に踏み出してほしいんです。舟から一歩、外に出てみてください。失敗はありません。神があなたを守ります。心からおすすめしたいと思います。
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2024年11月03日
人間本来の居場所 天の故郷
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#1265
人間本来の居場所 天の故郷
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
アメリカ西海岸がゴールドラッシュで沸き立っていた頃、多くの人がひと山当てようと殺到しました。そんな人々の一人に、ユダヤ系のリーヴァイ・ストラウスという人がいました。
しかし、掘れども掘れども金の鉱脈にはなかなか突き当たらないのです。疲れ果てた彼はふと周りをみた時、血眼になって地面を掘り返しているライバルたちの姿を見て、あることをひらめくのです。「この人たちのために、破れないズボンを作ろう」なぜなら、誰もがボロボロになったズボンでそれはそれは惨めな格好をしていたからです。
過酷な肉体労働にも十分耐える、頑丈にして機能的、性別も年齢も季節も問わずにいつでもどこでも誰もが履けるジーンズは、このようにして完成したのです。みんなが金を探り求めて必死になっている時、一人違ったことをするのはとても勇気がいることでした。しかし、もしみなと同じことをそのまましていたら、みなと同じように失敗していたのです。ゴールドラッシュで成功したのは、ほんのひと握りの人たちだけだったからですね。
さて、聖書の中にも世の中の時流に押し流されることなく、ぶれない生き方をした人たちが登場します。その代表は新約聖書の大半を書いたパウロという人物です。彼は自分の人生の原動力について、こう語っています。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」
このことばの中に、キリストがしてくださった三つのことが書かれています。
キリストは私を愛してくださった
第一に、キリストは私を愛してくださったということです。パウロは自分という人間をキリストによって愛されている人とみなして生きていたのです。そうであるとするなら、キリストが大切にしている自分をどうして投げやりに扱うことができるでしょう。
万葉集の歌の中に、恋人を想う歌がたくさん出てきますね。
「信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ」
おそらく防人として遠い国へ出征する恋人を想って歌った歌ですね。「いとしいあなたが踏んだ石だと思ったら、私にはまるで宝石のように思えてきます」という意味です。
この歌い手の女性はその小石をながめ頬ずりし、さすり、そしてうっとりしてます。それは川原に何十万とある砂利の一つに過ぎないんですが、恋人が踏んだ石という一点で、いとおしい宝物のように思えて大切にするっていうんですね。愛は何の変哲もない道端の石ころを何カラットのダイヤにも優る宝にしてしまう力があるんです。
あなたは神に愛されている人です。たくさんある砂利石の一つではありません。神がキリストによって慈しんだ人なのです。どんなに失敗があっても、過去にどんなにひどい罪があったとしても、それでも神さまの目には尊いと見なされた者なのです。神さまが自分のことを真心から愛し、大切にしてくださったと知るなら、自分の人生を粗末にすることはできなくなるのです。
キリストはご自身を十字架で捨てられた
第二に、キリストは私たちのためにご自身を十字架の上で捨ててくださったのです。なぜ、キリストが十字架でいのちを捨てることが、パウロにとって力となったんでしょう。それによって、たましいのふるさとに戻る道が確保されたからです。
1963年イギリスで大列車強盗事件が起こりました。グラスゴーからロンドンに向かっていた郵便列車が強盗団に襲われ、260万ポンドが盗まれたんです。これは現在のお金に換算すると、85億円にもなる額です。強盗団は信号を細工し、赤信号にして列車を止めたのです。運転手は不審に思い、列車から出たところを殴りつけられ失神します。この時の怪我がもとで、運転手は7年後に亡くなるのです。
この強盗団の一人に、ロナルド・ビッグスという人物がいました。やがて一味は逮捕され、彼も刑務所に入れられるんですが、しかし、ビッグスは一年後に脱走し、パリまで逃亡して整形手術を受け別人になりすまし、そのままブラジルにまで逃げてしまうんです。イギリスは国家の威信をかけて彼を追跡し、ついにブラジルで潜伏生活をしているビッグスを見つけ出して逮捕するところにまでは成功するのです。
しかし、国外に連れ出すことができませんでした。というのは、ビッグスはブラジル人の女性との間に子どもをもうけていたからです。ブラジルの法律ではブラジルで生まれた子どもの父親が外国人の場合、その父親は身柄を拘束されないという決まりがあったのです。こうして彼は罪を犯しながら罰を受けることもなく、仕事もしないで毎晩バーに現れ、観光客相手に自分の脱獄体験をまるで武勇伝のようにおもしろおかしく話して聞かせていたのです。やがて彼の半生は本になり、映画にもなり、益々図に乗る生活をするようになったんです。
こうしてブラジル生活が約40年続き、彼は72歳になった時、彼の中に変化が生じてきたのです。どういう訳でしょうか。彼はどうしても自分のふるさとを見たい、自分のふるさとであるイギリスに戻りたいと思うようになったのです。自分の生まれ故郷に対するあこがれ、懐かしさがこみ上げてきて、どうにも止めることができません。次第に体調を崩し、心臓を患い、起きてる時にはイギリスの写真を眺め、寝てる時にはイギリスの夢を見るようになるのです。彼は病的なホームシックにかかってしまったのです。
そして、とうとう72歳の時にイギリスに帰ったんですね。飛行機がイギリスに到着するやいなや、彼は即逮捕され、病状重い中、8年間刑務所に入れられます。そうして80歳にしてようやく釈放されたのですが、体調は優れず、弱っていくばかりだと言われています。刑務所生活がたたったんですね。そういうことになるということがわかっていながら、それでも故郷に帰りたくて仕方がなかったのは、本当の自分の居場所を見つけたかったからだと言われています。
ところで、人間のたましいの本当の居場所ってどこでしょう。それは、たましいの造り主である神さまのみもとなのです。しかし、人は神から離れ、自己中心の生き方をした罪人のために、そのままでは戻ることができないのです。ちょうど、ビッグスとイギリスの間に罪の裁きが待ち構えていたように、我々人間と天国との間には、永遠の地獄というさばきが立ちふさがっているのです。この永遠のさばきを取り除くために、キリストはご自身を捨ててくださったのです。キリストが十字架にかかって、身代わりに死んでくださった。そして三日目によみがえってくださったことにより、私たちはさばきを恐れることなく、天のふるさとに帰ることができるのです。
キリストは信じるものとともに生きられる
第三に、この方は信じる者の心の中に住んで、ともに生きてくださるのです。限界のある自分の力に頼って生きる人生は、ただただ消耗する人生ですね。しかし、全知全能のキリストがあなたの内側に宿ってともに生きる人生は、自分をも、周りの人々をも豊かにする人生なのです。
どうぞあなたもこのイエス・キリストを救い主として信じて、永遠のいのちをいただいてください。心からお勧めしたい思います。
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タグ :聖書と福音
2024年10月27日
目に見えない実在
《福音 みことば》
→→→『聖書と福音』#1264

↓ YouTube より↓
#1264
目に見えない実在
(高原剛一郎)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
少年時代に読んだ本で忘れられないのは「ロビンソン・クルーソー」ですね。実はロビンソンには実在のモデルがいました。アレキサンダー・セルカークという人物です。
若い時から乱暴者で、海賊船に乗り込みますが、船の中でもみんなに嫌われ、とうとう無人島に置き去りにされてしまいます。彼の手元に残ったのは二日分の食料と一冊のバイブルだけです。実は彼のお母さんはクリスチャンで、息子の荷物の中にそっと聖書を入れておいたんですね。
その島には、かつて置き去りにされた人たちがいましたが、みんな亡くなっていました。しかし彼は追い詰められた状況下で、聖書のことばを頼りに、神を信じるのです。そしてすべての環境を支配する神に「私に憐れみをください」と叫び求めるのです。
そして森の奥へと進んでいき、そこで果物や野菜や野生のヤギを発見し、生き延びることができるようになります。四年後に発見された時、彼は十分な栄養に加えて、酒もタバコもない生活で、すっかり健康的な肉体になっていました。さらにヤギの皮を壁紙にしたセカンドハウスまで持ち、小屋のネズミを追い払うためにネコをペットにしていたというのです。
不屈のど根性が彼をこのように支えたのでしょうか。いえ、神への信頼から生まれた前向きな態度が彼をサバイバルさせていたのです。
さて、聖書の中に次のようなことばがあります。
「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」
見えないもの① 神
第一に、見えないものの代表はなんと言っても、神ですね。
私たちを造り、生かしておられる創造主は肉眼で見ることはできません。そして見えないものを信じて生きるということは、何かナンセンスなことのように思われる方がいらっしゃるかもしれませんね。
しかし、自然界には見えないものに頼って生きる生き物がたくさんいるんですね。そのうちの一つに、アカヤマアリという昆虫がいます。ドイツのデュースブルク・エッセン大学というところに、ガブリエル・ベルべリッヒという学者がいます。彼は三年間このアリを観察してレポートにまとめました。それによると、マグニチュード2.0以上の地震の前に、このアリたちは日頃しない行動をとるというのです。通常このアリは日中に活動し夜は巣の中にいます。ところが地震が起こる前になると、アリたちは一斉に穴から出てきて夜通し巣の外にいるというんですね。
夜の活動場所を変えるということはアリにとっては宿敵に襲われるというリスクがあるんです。しかし地震で土が崩れてきて埋められてしまう危険は、なくなるんですね。この学者によりますと、アリたちは大気や地球の磁場の変化を感知しているというんです。つまり大気中のCO2ガス濃度が増加したり、電磁場という見えないものを感じ取るという、そういう能力があるっていうんですね。まさに見えないものに頼ることで彼らは生き延びているのです。
見えないもの② 自分の魂
第二に、見えないものは自分自身の魂(たましい)ですね。
私たちは、自分のからだは見えますが、からだの中にある魂(たましい)、心、あるいは精神は見ることはできません。しかし、喜んだり、悲しんだり、ワクワクしたり、がっかりしたりする心は確かにありますよね。
金子みすゞさんの詩の中に「こだまでしょうか」という作品があります。
「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「(もう)遊ばない」っていう。
そうして、あとで、
さみしくなって、
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか。
いいえ、誰でも。
自分が言ったことばが、やまびこのように返ってきてる。でもそれは、こだまじゃない。こだまではないなら、何なんでしょう。
彼女は誰と対話しているのですか。自分の魂(たましい)と対話しているのです。私たちには魂(たましい)があります。自分の人格です。それを目で見ることはできません。
しかし、見えないものはいつまでも続く、とあるように私たちの魂(たましい)は永遠に存在します。ただその永遠をどこで過ごすのかが問題なのです。行先は私たちの造り主のところなのか、造り主から完全に切り離された世界なのか、この二つのどちらかなんです。これは厳粛なことですね。
見えないもの③ 死後の世界
第三に、死後の世界は見えません。
聖書では、天国はある。地獄もある。と語っています。
アメリカにバイオレットというプロのピエロがいます。開店祝いや個人の誕生会などに呼ばれて引っ張りだこの人気者です。ある家族はメンバー全員の誕生日にバイオレットを呼んでいました。それで彼はその家族全員と親しくなるのです。その中に五歳のエミリーという女の子がいました。彼女の六歳の誕生日まであと一か月という時、バイオレットは呼ばれたのですが、自宅ではなく病院でした。まずドクターからエミリーの病状について説明がありました。彼女は難病で助からないけれども、自分が死ぬことをまだ知らないというのです。それで死について触れないように注意してくださいと言われます。
部屋に入って行って、20分ほどマジックをして帰ろうとすると、エミリーは聞きました。「バイオレット、私たちまた会えるの」一瞬詰まりました。「もちろん会えるさ。六歳の誕生日にまた来るから」すると「ごめんなさい、バイオレット。もう誕生パーティーは開くことができない。だから天国で会えるかしら」
いたたまれなくなったお母さんが部屋から飛び出して行き、彼はエミリーと一対一で向き合うことになったのです。そしてバイオレットは無神論者でした。人間は死んだらゼロになるという考えです。しかしこの五歳の女の子は天国について話したがっているのです。病院の中である人が中途半端な天国の話をしたようです。「天国には大きな家があってね。そこに君の居場所があるからね」でも彼女は大きな家にひとりぼっちになるのを恐れて、そして不安がっていました。これについては両親に聞きたかったのですが、そんなことをすれば、自分が死ぬということに気づいていないパパやママはきっと悲しむにちがいない。だから本当に今、一番聞きたいのは天国のことなのに、それを聞けなかったというのです。
彼女は天国について、詳しく正しい情報を知りたがっています。それによって自分を保とうとしているのです。その時、人は死んだら無になるんだというバイオレットの人生哲学は、彼女になんの力になるでしょう。彼は「天国ってね、友だちがたくさんいて、ピエロの町もあって、地上のパパやママの様子をいつでも見れるテレビがあるから大丈夫だ」と言いました。するとエミリーは安心しながらまた聞いたんです。「じゃ、そこにあなた来れるの」「ぼくが行くのはまだまだ先のことだから」と話をごまかすことしかできなかったというエッセイでした。
私はその話を読みながら、ああ、私がその場所におれたらな、と思いました。もしそうだったら、聖書が語る天国を説明することができるからです。「天国って、涙がなく、死もなく、悲しみも叫び声も苦しみもない。そして私を、あなたを、天国に入れるために、天から地上の十字架にまで下ったイエス・キリストという方がおられるんだよ」とお伝えすることができるのにと思いました。
見えない神は、見えるイエスとなって十字架にかかり、死なれ、よみがえり、天に帰り、そして私たちのために準備しておられます。誰でもイエス・キリストを信じる人には、天国の国籍が与えられます。
ぜひこのイエス・キリストを信じてください。心からお勧めいたします。
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