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2018年04月03日
寺内貫太郎一家
あれは、たぶん小学3年か4年の頃のこと。
何が原因で親とケンカしたのか?
何に対して腹を立てていたのか?
全く記憶に残っていないのですが…
自宅に構える鮮魚店の営業を終え
片付け業務に励んでいる両親に対して、
「もう こんなウチには帰らん!」などと
威勢の良いセリフを吐き捨てて、
夜の7時か8時頃に家を出たものの…
近所をフラフラと歩きながら、
「あっ!今日は寺内貫太郎一家がある日だ!」
と、その日のテレビ番組を思い出して、
こんな事をしている場合じゃない…と考え直し、
まるで何事も無かったかのごとく
急いで帰宅した思い出が、
うっすらと頭の片隅に残っています。


そんな幼少期の ほのかな思い出が残る
ドラマ『寺内貫太郎一家』
ウィキペディアによると、
パート1は 1974年1月〜10月放送
パート2は 1975年4月〜11月放送とのこと。
私にとっては、
小2の3学期から小4にかけての期間でした。
先日まで『BS12』にて再放送され、
懐かしく拝見させていただきましたが、
ずっと印象に残っていたことは…
小林亜星と西城秀樹による
激しい取っ組み合いの親子喧嘩シーンと、


おばあちゃん役の樹木希林が、
沢田研二のポスターに向かって
「ジュリー」と叫ぶ お約束のシーンくらい。



ドラマのストーリーや人物設定等は
ほとんど覚えていませんでした。
再放送を見て、改めて知った事は…
◉沢田研二が本人役で出演した回があったこと




◉樹木希林の芸名が
当時は『悠木千帆』であったこと など…

悠木千帆さんは、
テレビ番組のオークションコーナーで
「売る物がない」との理由で
自身の芸名を競売にかけて売却され、
自らは「樹木希林」に改名したそうです。
この頃から おばあちゃん役を演じていますが、
1943年1月生まれとの事なので
当時は まだ30代前半だったんですね。


また、先日・2月24日に
80才でお亡くなりになられた
左とん平さんも出演されていました。

屋根の上で歌うシーンがあった事も
思い出しました。



遥か昔の小学生時代の思い出が
ちょっぴり蘇った…
そんなドラマ鑑賞でありました。

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何が原因で親とケンカしたのか?
何に対して腹を立てていたのか?
全く記憶に残っていないのですが…
自宅に構える鮮魚店の営業を終え
片付け業務に励んでいる両親に対して、
「もう こんなウチには帰らん!」などと
威勢の良いセリフを吐き捨てて、
夜の7時か8時頃に家を出たものの…
近所をフラフラと歩きながら、
「あっ!今日は寺内貫太郎一家がある日だ!」
と、その日のテレビ番組を思い出して、
こんな事をしている場合じゃない…と考え直し、
まるで何事も無かったかのごとく
急いで帰宅した思い出が、
うっすらと頭の片隅に残っています。


そんな幼少期の ほのかな思い出が残る
ドラマ『寺内貫太郎一家』
ウィキペディアによると、
パート1は 1974年1月〜10月放送
パート2は 1975年4月〜11月放送とのこと。
私にとっては、
小2の3学期から小4にかけての期間でした。
先日まで『BS12』にて再放送され、
懐かしく拝見させていただきましたが、
ずっと印象に残っていたことは…
小林亜星と西城秀樹による
激しい取っ組み合いの親子喧嘩シーンと、


おばあちゃん役の樹木希林が、
沢田研二のポスターに向かって
「ジュリー」と叫ぶ お約束のシーンくらい。



ドラマのストーリーや人物設定等は
ほとんど覚えていませんでした。
再放送を見て、改めて知った事は…
◉沢田研二が本人役で出演した回があったこと




◉樹木希林の芸名が
当時は『悠木千帆』であったこと など…

悠木千帆さんは、
テレビ番組のオークションコーナーで
「売る物がない」との理由で
自身の芸名を競売にかけて売却され、
自らは「樹木希林」に改名したそうです。
この頃から おばあちゃん役を演じていますが、
1943年1月生まれとの事なので
当時は まだ30代前半だったんですね。


また、先日・2月24日に
80才でお亡くなりになられた
左とん平さんも出演されていました。

屋根の上で歌うシーンがあった事も
思い出しました。



遥か昔の小学生時代の思い出が
ちょっぴり蘇った…
そんなドラマ鑑賞でありました。

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Posted by ドラドラしゃっちー at 06:40│Comments(0)
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