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2020年01月22日
「男はつらいよ」健闘の理由
郷愁だけじゃない
「男はつらいよ」健闘の理由
《1/22(水) 6:10配信 東洋経済オンライン》

吉岡秀隆が演じる満男(写真:©2019松竹株式会社)
一風変わった映画がヒットした。
新作映画である。しかし、公式サイトやポスターで大きく取り上げられている「主人公」を演じた俳優は、約四半世紀前に亡くなっている。
なので、新作映画でありながら、その「主人公」が登場しているシーンは、過去の映像のリミックスになっているという、ある意味、実験的なアプローチの作品である。
1位『アナと雪の女王2』、2位『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』に続く…3位が、その映画――『男はつらいよ お帰り 寅さん』だ。
(興行通信社「週間観客動員数TOP10」1/4~1/10付)
「主人公」とは、もちろん車寅次郎(渥美清)である。
■プロモーションで「フォロワー層」を開拓
健闘に至った理由として、思い浮かぶのは、質量ともに充実したプロモーションである。
とくにNHK関連が目立った。まず、NHK総合で昨年10月より全5話放映された「少年寅次郎」。車寅次郎の少年時代を描いたドラマで、複雑な家族関係など『男はつらいよ』の基礎情報を、広い層に対して整理する効果があったと思う。
またNHK BSプレミアムでは、元日に『男はつらいよ』過去作3作を一挙放映しただけでなく、大阪を舞台に、桂雀々が車寅次郎を演じる「贋作 男はつらいよ」が今月5日から放映されている。
純然たるプロモーションではないものの、これらの展開は、かつての『男はつらいよ』シリーズに明るくない層に対する入門編として機能、結果として今回の『お帰り 寅さん』への集客に大きく貢献しているはずだ。
ここで考えたいのが、『お帰り 寅さん』の顧客構造である。
もちろん、そのコアをなすのは「リアルタイム層」だ。国民的映画として人気を博していた『男はつらいよ』シリーズを、当時リアルタイムで見ていた60代以上の層である。しかし「リアルタイム層」だけだと、ここまでの広がりにはならなかったのではないか。
先のNHKでの「入門編プロモーション」も奏功した結果、「リアルタイム層」の下の世代、『男はつらいよ』を当時しっかりと追っていなかった40~50代の「フォロワー層」まで吸引できたことが重要だったのではないかと考える。
「フォロワー層」の1人は私(53歳)である。当時、自分の親世代が『男はつらいよ』シリーズを手放しで褒め称えることに、コンサバ性を強く感じ、敬遠していたにもかかわらず、今回は満足した。もう少し具体的に白状すれば、けっこう感動して、感涙までしたのである。
冒頭の桑田佳祐の歌でぐっとつかまれ、インサートされたシリーズ第1作、博(前田吟)との結婚を決意するさくら(倍賞千恵子)のキュートさに見とれ、悩める満男(吉岡秀隆)の姿に共感し、そして例のエンディングに涙を流したのだ。
言いたいことは、『お帰り 寅さん』が単に「リアルタイム層のノスタルジー(郷愁)でヒットした」と結論づけてしまうと本質を見誤るのではないか、ということである。「フォロワー層」にも波及しうる、より広く深い魅力が埋め込まれていたのではないか。
そこで私は、「ノスタルジーとリアリティーの融合」に着目するのだ。
■スクリーンから溢れる「疲労感」
『お帰り 寅さん』の画面は、疲労感にあふれている。
「くるまや」の座敷から台所に行く段差に手すりが付けられていた。さくらや博が、あんなに短い段差の上り下りすら、つらい年齢になったのだろう。
そのさくらは、博から物忘れを指摘されてキレるのだが、あのシーンも、まさに「老人あるある」として、実にリアリティーがある。
疲労感をぎゅっと凝縮した存在が、泉(後藤久美子)の実の父=一男(橋爪功)だ。妻礼子(夏木マリ)と離婚し、ケアセンターに1人で入居していて、身寄りなく「孤独死」を待ちながら、ほとんど見ず知らずの満男に金をせびる。
その泉は、ヨーロッバ在住で結婚して子どももいて、国連で働き、そのうえ、相変わらずの美貌という、一見完璧な「リア充」なのだが、仕事はUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の職員で、世界の難民の惨状に日々直面している。
実質的な「主人公」の満男は、脱サラののちに、小説家として(ある程度)成功していて、こちらも一見「リア充」なのだが、周囲のあれこれに翻弄され、(吉岡秀隆一流の)苦渋に満ちた表情を始終見せていて、作品の疲労感を増幅させる装置となっている。
それ以外にも、さくらの老眼鏡をかけてスマホをいじる姿や、ずっとイライラし続けている礼子、トイレの間隔が近くなっているリリー(浅丘ルリ子)の姿に、「人生100年時代」というポジティブな響きとは裏腹の、高齢化社会におけるリアルな疲労感を確かめるのだ。
「『くるまや』の一家は、今の平均的な日本の家族の中では恵まれているほうじゃないですか。小さいながらも自分の土地と家を持っていますから」と、パンフレットで語るのは、監督・山田洋次である。そんな「恵まれている」設定であっても、多面的な疲労感が画面いっぱいにあふれる。
私が思うのは、現代社会における疲労感のリアリティーを、これでもかこれでもかと注入したうえで、車寅次郎というノスタルジーを上乗せさせたことこそが、重要だったのではないかということだ。
つまり、先に述べた「ノスタルジーとリアリティーの融合」。言葉を補足すると「過去にうっとりとするノスタルジーと、現代の疲労感というリアリティーの融合」。これが『お帰り 寅さん』の本質的な魅力だと思うのである。
もちろん車寅次郎は、疲労感のリアリティーに対して、何の解決策も提供しない。2020年の疲労感は、車寅次郎の処理能力から外れている。
しかし、というより、だからこそ、満男をはじめとする作品の中の人々は、車寅次郎の思い出で心を奮い立たせて、疲労感に立ち向かっていくエネルギーを得ているのだ。
山田洋次はパンフレットで「最初は過去の作品を編集して1本の映画にしようと思った」とも語っているのだが、そういうノスタルジーのみの作品だと、ここまでの成功には至らなかったのではないか。
と考えると、『お帰り 寅さん』は、大ヒットした映画『ボヘミアン・ラプソディ』にも通じる部分がある。
あの映画も一見、クイーンの「リアルタイム層のノスタルジー」を狙ったもののようでいて、セクシャリティや民族問題、ドラッグなど、現在社会に通じるリアリティーとノスタルジーを見事に融合させていた。それが、その後いくつか作られた「ミュージシャン伝記映画」との決定的な違いだったと思うのだ。
■幅広い層を吸引できたワケ
エンタメ界において「昭和コンテンツ×ノスタルジー」の食べ合わせは最強と思われている。また、今回の作品も『お帰り 寅さん』というタイトルに象徴されるように、ノスタルジーをマーケティングに徹底活用しようとしたフシがある。
ただし、ノスタルジーの弱点はターゲットが「リアルタイム層」に限定されることだ。より幅広い層への普遍性を持たせるなら、現代へのリアリティーが必要となるのは、ある種当然の話である。
「フォロワー層」の1人として言わせてもらえば、『お帰り 寅さん』には現代へのリアリティーを確かに感じたし、だからこそ幅広い層を吸引、観客動員も健闘したのではないか。
――などという、上から目線の理屈っぽい分析を述べていると、車寅次郎が後ろに突然現れて、「てめぇ、さしずめインテリだな」と返されそうだが。
スージー鈴木 :評論家
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Posted by ドラドラしゃっちー at 22:28│Comments(0)
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