2024年06月08日
セ2位 5000勝4660敗341分
6000勝は阪神に抜かれぬように…
中日が10001試合目で5000勝達成
近年は先輩たちの貯金をすごい勢いで食いつぶす
《6/7(金) 9:26配信 中日スポーツ》

中日の『セ1勝』を報じる1950年3月11日付の中部日本新聞
◇渋谷真コラム「龍の背に乗って」
5人の継投で最強ホークス打線を零封し、中日はセ・リーグ分立後5000勝を達成した(4660敗341分け)。前日は同じく分立後10000試合。こちらの達成順に大きな意味はないのだが、5000勝は早い方がいいに決まっている。巨人の5512勝(4154敗334分け)には大きく後れを取っているものの、74年という長い年月をかけて2位なのは胸を張っていい。
歴史の始まりには、必ず「1」がある。1950年3月10日。分立時のセ・リーグは8球団あった。本拠地制が敷かれるのはまだ先のこと。4球団ずつが平和台と下関に分かれて開幕シリーズを戦った。下関組に入った中日の初戦の相手は、分立時の対立から主力選手を大量に引き抜かれた阪神。左腕の清水秀雄の緩急がさえ渡り、4安打で完封した。
本紙はまだ産声を上げていない。翌日の中部日本新聞は『清水は例によってスローボールで後藤、藤村の主力打者をおさえ、最後まで二塁ベースを踏ませぬ快投振りだった』と報じている。中日の3番は初代ミスタードラゴンズの西沢道夫、阪神の4番は初代ミスタータイガースの藤村富美男。わずか1時間15分で終わり、互いに交代なしの9人野球だった。中日は天知俊一監督だけでなく、この試合のメンバー9人中、清水を含む6人が明大出身。当時から中日といえば明大閥で固めていたが、5000勝の勝利投手も後輩の柳だったのは何かの縁だったのかもしれない。
分立元年の中日は、89勝も挙げながら98勝の松竹に及ばず2位。当時の記録を振り返って驚くのは、開幕の下関に始まって、北は旭川から南は熊本まで何と51球場で137試合を戦ったということだ。新幹線も青函トンネルもない時代。選手たちの疲労感は想像に難くない。そうして先輩たちがコツコツと積み上げてきた貯金を、近年はすごい勢いで食いつぶしている。6000勝の時に阪神に抜かれることなど、くれぐれもないように…。
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